隠退牧師の徒然記<526>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<526>
2020年3月30日「聖地旅行 4 」


聖書の言葉
「旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。」(出エジプト記40章38節)


セント・カテリーナ修道院を後にしてシナイ半島を北上し、31日の午後2時頃、エジプトとイスラエルの国境の町タバに着いた。昼食をとり、イスラエル入国の手続きを行う。約1時間を要した。その後、いよいよイスラエル旅行となる。カイロからのバスはここまでで、ここからは別のバスに乗り換えた。そして、ここからは日本人のガイドが同行することになった。
 イスラエルは日本より6時間遅れである。まず向かったのはエンポケックであり、着いたときは夕刻であった。そこは死海の辺である。翌日は1996年1月1日である。まずは、明けましておめでとうございます、と遠くの異国の空の下から日本の家族、教会の皆さんに挨拶を送る。この日はマサダ、クムランを見学し、再びこのホテルに戻ることになっている。死海を囲む山の一つがマサダである。しかし、マサダは単に山ではない。大きな要塞なのである。マサダとは「要塞」との意味である。その高さは400メートル。下から見上げると岩肌が不気味に見える。ロープウェイで上まで登る。最初に大祭司ヨナタンが紀元前100年代に建設したといわれる。その後、ヘロデ王が改築し、使用している。兵士1万人分の武器と貯水槽を置いていたという。このマサダがローマに滅ぼされるのは、エルサレムが紀元70年に滅ぼされ、その3年後である。籠城していた子どもを含めた960名が自決したといわれる。古今東西、悲しい歴史が残されている。
『山上のマサダの砦は天の国バベルの塔を繰り返し見て』
マサダから見える人小さくてただそれだけで勇者の誇り』
 マサダを見学した後はクムランの見学である。死海西側にあるクムランで聖書の貴重な資料が見つかった。死海写本といわれるものである。1947年、羊飼いの少年が迷子の羊を探すうちにクムランの山の斜面にある洞窟に来た。石を投げ込んだところ、不思議な音がした。その報告を聞いた人が中に入って調べてみると、いくつかのかめがあり、破損しているものもあるが、そのかめの中から古びた巻物が出てきたのである。紀元前100年に写筆されたヘブライ語イザヤ書であった。他にも聖書の写本があった。これは大変貴重な資料であり、イスラエルはこの貴重な古写本を収めるための特別な建物を造った。死海写本館である。クムランの遺跡を見学したが、土と岩の遺跡を見ながら、聖書に取り組む人々を思い浮かべようとした。
『クムランとマサダの砦土と岩造るも苦労見るも困難』
マサダとクムランを見学して、昼過ぎに死海の辺のホテルに戻った。死海界隈は海抜マイナス400メートルといわれる。ここで死海浮遊体験をする。人が簡単に浮くほど塩分が多い湖なのである。海水の塩分濃度はだいたい5%であるのに対し、死海は25%の濃度である。そのため魚類の生息は確認されてなく、死海という名称もそこから来ている。山ちゃんが早速浮遊体験をしている。なんとなく気後れしながら私も浮遊を試みた。ほんとに浮遊できたが、体が傾いたので、あわてて立とうとした。湖底は塩の岩石でごつごつしている。足の親指の裏側を岩石で切ってしまった。かなり深い傷であったが血が出ない。強い塩分が殺菌し、止血してくれたのであろう。体を洗ってから出発である。いよいよエルサレムに向かった。夕刻にエルサレム新市街のホテルに着いた。

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死海のほとりでツアーの皆さんが礼拝をささげる
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マサダの要塞をしたから見上げる。
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死海にて浮遊体験をする。
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ツアーに参加した皆さんの記念写真。
noburahamu2.hatenadiary.org