隠退牧師の徒然記<541>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<541>
2020年7月13日「家族を喜び」


聖書の言葉
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかった。
ルカによる福音書15章15-16節)


わが家は三人の子供達が成長して、それぞれの道を歩んでおり、まことに喜ばしいことである。一番上の子供はスペイン・バルセロナにわたり、ピアノの演奏活動をしている。二番目の子供は相模原に住んでおり、ケアマネの資格を持ちながら高齢者施設に勤めている。そして三番目の子供は海老名に住み、カイロプラクターとして皆さんの健康のお手伝いをしている。要するに子どもたちは自立してそれぞれの場で歩んでいるので、家にいるのは高齢の夫婦なのである。二人の生活は、それなりに会話があり、まあまあ生活しているのであるが、例えば、孫でも一緒にいるなら、それなりに視野も広がるのであろう。読売新聞を購読しているが、一番最初に見るのが「コボちゃん」という漫画である。老夫婦と若夫婦、そして小学校低学年のコボちゃんと妹のミホちゃんの日々の生活を楽しく紹介している。コボちゃんそのものよりも、この家の家族の営みを楽しんでいるのである。犬もいれば猫もいる。
この漫画を楽しく見ながら、スペインにいる孫の歩みを示される。週に一度はオンラインで話しているが、この場にいるわけではない。我が家の子供達は、月に一度は、こちらで開いている六浦谷間の集会の礼拝に出席する。隔月に一度は三崎教会に招かれているが、そのときも一緒に行ってくれるのである。適当に家族と共に過ごしているのであるが、しかし、普段は夫婦二人の生活なのである。その老夫婦に、少しは潤いを与えてくれるものが存在するようになる。置物であるが、豚の「ブーちゃん」である。知人の葬儀に列席したので、お返しとしてカタログ集が送られてくる。カタログを見ても、この年齢になると、これと言って必要なものはない。と思いながらカタログを見ていると、この豚の「ブーちゃん」が目に留まったのである。これは庭にでも置いておこうと思う。実際、庭には犬のワンちゃんや鳥のチュンちゃんが置いてある。いずれも雑草の陰に隠れている。この家の玄関先には天使さんが置かれている。来客を歓迎しているのである。こうして庭にはいくつか置物があるが、豚の「ブーちゃん」が送られてきたとき、庭に置くのではなく、リビングにおいておくことにしたのである。このブーちゃんと目を合わせるとき、気持ちが変えられてくるのである。
私たちが、もう少し若い頃はいろいろな動物を飼っていた。綾瀬の大塚平安教会時代には犬やリスを飼っていた。そして、六浦に住むようになってからは、しばらくはリスを飼っていた。離し飼いにしていたので、食事の時にはテーブルの上にまでやってきて、一緒にソーメンを食べたりしていた。今は、何の動物もいない。生き物は、いつかお別れするので、それが悲しくて何も飼わない、とは連れ合いの弁である。だから、置物にしても、癒してくれる存在を喜んでいるのである。今は、豚のブーちゃんが大切な家族なのである。

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庭の雑草の中に置かれているワンちゃん。
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玄関に置かれている天使さん。来客を歓迎してくれる。
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昔、家族の一員であったリスのシュータ君。お昼ごはんはソーメンを一緒に食べ。カレンダーの写真として掲載していた。
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豚のブーちゃんが家族になって。

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