隠退牧師の徒然記<735>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<735>
2024年4月1日「最初の朝餐」

聖書の言葉
エスは「さあ、朝の食事をしなさい」と言われた。パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。(ヨハネによる福音書21章12-13節)

急に春の到来のようで、今までの寒さはどこへ行ったのやら。4月1日になって、用足しに出かけようとしたとき、今までの服装はさすがに暑さを感じる。セーターまで着ていたのであるから、これは脱がないと暑さに応える。昨日より気温が9度も下がりますよとの天気予報である。下がるものの、昨日は5月のような気温なのであり、昨日より下がっても平年並みなのである。もはや春であり、重ね着から解放されて、なんか、伸び伸びとした感じでもある。冬の寒さから春の暖かさの橋渡しをしてくれるのが庭に咲く源平桃の花である。前週は随分と膨らんでいるとの思いであったが、昨日来の暖かさで一気に咲き始めている。昨年の11月に一時帰国したスペイン・バルセロナ在住の娘の羊子家族が庭の整理をしてくれた。羊子の連れ合いイグナシオには、源平桃の枝をかなり整理してくれる。だいぶ枝が整理されたが、それがかえって幸いし、花もきれいに咲くのである。いつもは3月下旬ころには満開なのであるが、今年は寒さが続いたので、4月を迎えて満開になる。今年は源平桃の花に励まされて新しい歩みが始まったとの思いである。3月31日にイースターを迎え、キリストの復活と共に新しい年度が始まっているのであるが、「最初の朝餐」と共に始まったということである。イエス・キリストは十字架への歩みを進めるとき、お弟子さん達と「最後の晩餐」を共にする。その時、パンを示しながら、「今後はわたしのからだとして食べなさい」と勧める。次にぶどう酒を示しながら、「今後はわたしの血だとして飲みなさい」と勧めたのである。お弟子さん達の信仰を養う導きとしてバンとぶどう酒を示したのである。これが聖餐式となり、キリスト教の世界ではいつも聖餐をいただいては信仰の励ましとなっている。この「最後の晩餐」に対して、復活されたキリストは「最初の朝餐」を与えているのである。「最後の晩餐」については聖書のマタイによる福音書26章26節以下に示されている。マルコやルカによる福音書も記しているとおりである。ヨハネによる福音書は「最後の晩餐」については記していないが、そのかわり「最初の朝餐」について記している。キリストの復活後、もはや師であるイエス様が共におられないので、弟子たちは何をするわけでもないが、漁師であったペトロさん達と共に魚を取りに船に乗る。ところが一晩中の漁は何も取れない。ところが岸にいる人の声で網をおろすとたくさんの魚が捕れる。「あの方は主だ」と分かり、岸に上がる。すると先ほど声をかけた人が、焚火で魚を焼いている。さらに取れた魚を焼くのであった。この方は師であるイエス様であると信じ、イエス様によって用意された朝の食事をするのであった。復活のイエス様は日毎の糧を導いてくださるのである。「最後の晩餐」は信仰を導くのであり、「最初の朝餐」は生活の糧を導いてくださるのである。30年間、一つの教会の勤めが終わるとき、その感謝のしるしとして説教集を発行する。「最後の晩餐」の聖餐式は毎月いただいていた。今、30年間を振り返ったとき、日々、生活の糧を導いてくださったことを示され、説教集の題を「最初の朝餐」としたので。ある。「最初の朝餐」は隠退した今でも日々与えられていることを感謝しているのである。

源平桃の花が咲き始める
30年務めた教会の退任にあたり、説教集「最初の朝餐」を発行

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隠退牧師の徒然記<734>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<734>
2024年3月25日「春に向けて⑧」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

最近のブログは、春に向けての思いを書いているが、特に幼稚園等でのお別れが春に向けての一コマであると記している。卒業する子どもたちとグループ毎にお弁当を食べたこと、卒業記念としてガウンを着ての写真撮影、そして卒業式等について記してきた。いろいろと思い出があるが、個人的な思い出が募るのはお別れの記念帳である。先生たちがまとめてくれるのであるが、お友達の言葉が記されており、中には写真まで添付されている。そのような記念帳には卒業生ばかりではなく、在園生のお友達、また保護者、先生達まで書き添えてくださっており、紐解く喜びがある。30年間務めた幼稚園のお友達、その後2、3年しか勤めない幼稚園でも、退任する時にはお友達のお別れの言葉をいただいているのである。その後10年以上を経ているので、もはや高校生または大学生になっているのであろう。あるいは社会の中で働いているお友達もいるのかもしれない。しかし、記念帳に記しているお友達は、その時点で時間が止まっており、いつまでも「あの存在」が残されているのである。在任中、お母さんの自転車の後ろに乗せられているお友達が、道を歩く私に、「えんちょうせんせい からだに きをつけてね」と言ってくれたこと、その声が今でも耳に残っているのである。そう、記念帳を紐解かなくても、いろいろな言葉が聞こえてくるのである。いろいろなお別れの言葉をいただいているが、いくつかを記しておこう。

〇せんせい、いつもありがとう。
〇いつまでもげんきで。わたしのことを忘れないで。
〇いつまでも ながいきしてね。
〇いつもやさしいえんちょうせんせいは みんなをたすけてくれる。
〇えんちょうせんせい びょうきせずに げんきでいてください。

30年間在任した幼稚園では、退任にあたり、卒業後数年の皆さんにも「お別れ会」の案内をしてくださり、出席返信のはがきにメッセージを記してくれている。

〇今までおせわになりました。これからも元気でいてください。ぼくは今年、6年生になります。
〇いままでぼくらのことを思っていてくれてありがとうございました。次はぼくらが恩返しする番ですね。いくら遠くにいて姿が見えなくても僕らとは心と心でつながってるからだいじょうぶですよ。ぼくらはいつまでも神の子として生きていきたいです。

お別れしたお友達が、今も覚えてくださっていることで、元気百倍になっている。春の喜びでもある。

退任にあたり、お友達の言葉をいただく
いつまでも励ましとなり
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隠退牧師の徒然記<733>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<733>
2024年3月18日「春に向けて ⑦」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

自宅の近所の家が建て直しをされるようで解体が始まる。その解体で残念なことは、その家の前には桜の木があり、春になると奇麗な桜の花を喜んでいたのである。かなり太くなっており、花を楽しませていただくが、花が散ることになると、その家の方が花びらの掃除で大変のようであった。さらに秋になると落葉となり、これもまた大変のようである。こちらは通りすがりのもので、きれいな桜を喜んでいるだけで、掃除をしないのであるから、申し訳ないと思っていた。しかし、もう少しで桜の花が咲くというのに、切り倒してしまい、残念の一言である。今年の開花宣言がテレビで報じられるようになっており、横浜方面は3月21日頃とか。私の印象では、桜の花と言えば、4月の入学式の頃と思っていたが、最近は早くなったのか、3月の卒業式の頃になっている。今は学校等で卒業式が行われている。能登半島の災害地の小学校での卒業式の様子なども報じられている。長年、教会の牧師と共に幼稚園の園長を担ったので、いろいろな卒業式が蘇ってくる。幼稚園の場合、「卒園式」と称している幼稚園が多い、しかし、担った幼稚園では「卒園式」ではなく「卒業式」と称していた。送り出す子供たちは、幼稚園を卒業したのではなく、幼稚園時代の業を卒業したのである。幼稚園は生涯教育として、送り出した子ども達とはいつまでも関わっているのである。そのため毎年「たより」を卒業生に送り、人生を励ましているのである。特に心に示されているのはハンディキャップを持った子供たちである。ある年、目が見えず、知的障害を持つお友達のAちゃんを受け入れた。先生達とも協議し、どのように対処するか、いろいろな状況を示されていた。しかし、先生たちが案じていたことが、解消されつつあったのである。毎日、Aちゃんの周りには親衛隊がおり、お友達が見守ってくれるようになったのである。そして、迎えた卒業式である。卒業式には、一人一人前に進み出て、園長から修了証書を受け取る。Aちゃんの名前を呼ばれると、一人のお友達がAちゃんの手を引き進み出る。そのお友達がAちゃんの修了証書を共に持ち、Aちゃんの席に戻って行ったのである。Aちゃんについては保護者の皆さんもご理解されているので、涙を持ってAちゃんの卒業を喜んだのであった。Aちゃんのお母様とは、その後もお便りをいただいていた。Aちゃんが進んだ学校で染物クラブに所属し、Aちゃんが関わったという染物を送ってくださった。その染物は幼稚園の玄関ホールに飾っていたが、数年前にその染物はAちゃんのお母様にお返ししたのであった。もはや玄関ホールに飾っていても、どなたもAちゃんを知らないからである。私も存在しないのでお返ししたのであった。玄関ホールに染物が飾られなくなったが、私の存在の中に飾られているのである。Aちゃんのことは一例であり、いろいろな子お友達を記すとしたら枚挙にいとまがない。桜の花を喜びながら、送り出したお友達を思いだしている。さて、今日はどのお友達に思いを馳せようか。春に向けての一つの取り組みでもある。

幼稚園の卒業式で修了証書授与
卒業のお友達を先生達が見送る

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隠退牧師の徒然記<732>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<732>
2024年3月11日「春に向けて ⑥」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

前回、1月、2月、3月の歩みをする中でも、春に向けて忙しく過ごすことになると記している。卒業生を送り出す準備、新しくお友達を迎える準備等である。送り出すことでは、もう一つの取り組みがあった。卒業する子どもたちとお昼のお弁当を食べることである。お弁当を持ってクラスに行くことも考えたが、一人一人とお話ができない。そこで、数人ずつ園長室に招き一緒にお弁当を食べることにしたのである。毎日、4、5名のお友達が園長室にやって来る。みんな胸を弾ませてくるようである。当初、園長室にお招きするお友達にお手紙を渡していた。「〇〇さんへ。明日、園長室でお話をしながらお弁当を食べたいので、ぜひ来てください。」とのお手紙を渡すのであるが、保護者のお母さんのお話では、寝るとき、枕元においていたということである。そして、当日お友達と共にやって来る。園長室を見回し、園長のお弁当を覗きこみ、わいわいと言いながら自分のお弁当を広げる。そしてお話をしながら食べるのであるが、口の中にいっぱい詰め込みながら話すので、ゆっくり食べるよう促すのであった。お話ばかりして、少しもお弁当が進まないお友達もいる。お話は、今までどんなことが楽しかったか、と聞くのであるが、やはり最近のことの思い出である。最近のことと言えばクリスマスのことであり、年があけて凧揚げ大会をしたこと、卒業遠足で出かけたことなどが話題となるのであった。お手紙を渡していたのは最初の頃で、その後、お手紙を渡すことなく、突然、園長室で食べることを先生から言われるのである。それでもうれしいことであり、賑やかにやって来るのであった。事前に知らせてなかったので、その日、園長先生とお弁当を食べたことを聞いたお母さんが、「知っていればねえ」と言い訳のようなお言葉をいただくのであった。お弁当箱一面に海苔、ふりかけのみのお弁当等もあるが、いろいろなおかずが楽しく入れられているお弁当も。お弁当の品定めをするのではないが、いろいろなお弁当を示されるのであった。あるお母さんが、毎日のお弁当の写真を写しておき、アルバムにして見せていただいたことがある。幼稚園時代のお弁当作りは、貴重な歴史になるであろう。小学校に進めば給食となり、もはやお弁当を作ることが無くなる。卒業間近のお友達とお弁当を食べる季節は「春に向けて」のプログラムなのである。クラス全員のお友達とのお弁当が終わるころ、もうすぐそこに春が来ているのであった。時々であるが、隠退している今、一人でお昼のご飯を食べながら、今頃はお友達とお弁当を食べていたなあ、と思い出すのであった。もう春がそこまでやってきていると知らされるのである。

収穫感謝礼拝後、全員の会食
卒業するお友達とお弁当を食べる
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隠退牧師の徒然記<731>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<731>
2024年3月4日「春に向けて ⑤」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

新年を迎え、1月、2月、3月の歩みをする中でも、春に向けて忙しく過ごすことになる。学校や幼稚園は3月に子供たちを送り出し、4月に新入生を迎えることで、その二つのことを示されながら過ごすのである。先生たちは何かとお忙しく過ごしている。幼稚園の職務を担当している頃、1月2月は卒業の準備に追われている。卒業する子どもたちには教会から聖書を贈呈、幼稚園から「こどもさんびか」を贈ることになっている。その聖書の扉に、一人一人、贈る言葉を書いていた。それも筆字で書くので、結構時間を要するのである。ひと時は50人、60人の卒業生に贈る聖書に、一人一人の存在を示されながら、励ましの言葉を書くのであった。ある年は、何かと忙しく、ゆっくりと聖書に励ましの言葉を書く時間が惜しまれた。それで、この年は筆字ではなくペン字で書いたのである。担任の先生から、筆字で書かなかったことへの抗議をいただく。それ以来、どんなに忙しくても、簡単に済ませることはしないことにしたのであった。卒業の準備としては、卒業証書がある。証書に名前を書き、数字などを書き入れるのであるが、証書と共に記念写真を添付することにしていた。それは大学生が卒業式に着るガウン、そして帽子である。幼稚園の子供用があることを知る。全員が一度に着るのではなく、写真用に大、中、小の三種類のガウンを用意し、一人一人の記念写真を写すことにしたのである。普段、着ることもないガウンの卒業写真は保護者の皆さんも喜んでくださったのである。卒業証書だけなら、ほとんど開かないファイルであるが、ガウンの写真が添付されているので、何度も卒業のファイルを開いては、幼稚園時代を思い出しつつ懐かしく見ているというお声を聞いている。田舎のおじいちゃん、おばあちゃんにも送りたいので写真の焼き増しを求められるのであった。聖書の扉に筆字で書いたり、卒業証書に名前を書いたり、いかにも筆達者に思われるが、決してまともな字であるとは思っていない。中学生時代、習字の時間があり、習字の先生から、「下手だね」と言われたことがある。その言葉がきっかけであったのか、何かと筆字を用いた。もちろん他人様に筆字では書かないが、自分の記録として書いていたのである。今になっても他人様に書く筆字ではないが、それでも職務上書かなければならないので、こんな筆字で申し訳ないと思いつつ筆を握っているのである。書斎には私の神学校時代の校長先生が書いてくれた色紙が飾られている。「ただこの一事を務む」と筆字で記されているのであるが、それほど達筆とは思えないが、その字体は心に示されるお言葉である。達筆でなくても、気持ちを表す言葉を筆に託すことで、心に示されるのである。これからも筆に託しては思いを伝えたいのであるが…。連れ合いのスミさんは結構筆字を書いている。部屋に掲げられているスミさんの筆字を示されながら、元気に飛び回っていた頃を思い出している。今は体調を崩して横になっているが、筆字の連れ合いを受け止めているのである。今の時代、スマホで指先が器用になっているが、字を書くことから遠ざかっているので、なるべくペンを持つことにしたいのであるが…。
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隠退牧師の徒然記<730>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<730>
2024年26日「春に向けて ④」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

キリスト教の暦は、今は「受難節」としての歩みである。受難節とはイエス・キリストの十字架への道を偲び、人間の救いのためであることを深く受け止めて過ごす季節なのである。今年は2月14日から受難節が始まり、3月30日まで続く。この期間、キリスト教の人々は質素に生活することになっている。その受難節に入る前、しばらくは質素の生活をするので、それなら今のうちに美味しい肉をたくさん食べ、楽しく過ごそうということになる。それがカーニバルと言うものである。いわばお祭りであり、本来の意味も知ることなく楽しく過ごしている人々もあるのである。日本でもクリスマスと言えば楽しいパーティー、プレゼントなのであり、クリスマスの意味も知ることなく喜び合うことと同じなのである。「春に向けて」の一つの主題として「受難節」を記しているのは、受難節が終われとき、まさに春爛漫の時を迎えているからである。イースター、復活祭は3月下旬から4月の中旬頃に迎えるので、まさに春を喜んでいるときになる。キリスト教ではイエス・キリストのご復活をお祝いする時なので、復活の喜びと共に暖かい春を喜びつつ過ごすのである。そういう意味で受難節は春に向けての歩みなのである。受難節は質素な生活をしつつ過ごす。その姿勢を身をもって実践する方がおられた。受難節は甘いものは控えるとの生活を実践されていた。週日の夜の祈祷会に出席される。集会が終わるとお茶が出るが、時には甘いお菓子なども出される。その方はいっさい口にはされなかった。お連れ合いに聞くと、抜け道があるのですよ、と言われ、お勤め先ではビールなんか飲んでくるのですよ、ということであった。教会では質素の生をしつつも社会的にはそれなりに歩まれていたのである。それはそれで結構であると思う。キリスト教でも高齢の皆さんは、昔からの信仰の生活が身についており、この受難節の期間には厳格に質素の生活を実践している。バスを乗るにしても一つ、二つの停留所を歩いているとか、お茶断ちをされる方も、飲みたいコーヒーでも喫茶店には寄らないとか。それらを倹約して克己献金としてささげるのである。私の中学生時代、日本基督教団は克己献金袋を配布して、克己の信仰の歩みを求めていた。いつの時代からなくなったのであるが、信仰の歩みは強いられて実践するものではなく、本人の姿勢で歩めばよいのである。キリスト教の国でカーニバルの喜びあいも信仰の姿であろう。そして、受難週と言い、受難節の最後の一週間は、まさにイエス・キリストの十字架の時であり、深く受け詰めつつ歩むのである。その信仰を現わすとき、喜びつつ迎えていたのがカトリック教会であった。受難週のミサには普段教会には来ない子供たちであるが、神父さんと共に聖壇に上がり、棕櫚の枝を床に打ち鳴らしながら、十字架の救いを喜ぶのであった。
春に向けて歩んでいるが、天気が続けば春の近さを示され、雨が続けば春到来の知らせと受け止めるようになっている。受難節は春に向けての歩みなので、受難を示されつつ、日々喜びが増していく日々なのである。「もう春ですよ…」と歌いつつ。

受難週の始まりに、子供たちは棕櫚の枝を持って教会に集まる。バルセロナカトリック教会で。
神父さん共に聖壇に上がり、イエス様を迎える。
受難週はお祭りのように屋台が並ぶ。

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隠退牧師の徒然記<729>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<729>
2024年2月19日「春に向けて ③」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

「春に向けて」示されることを記しているにしては、今回の「床屋さん」は主題にそぐわない。しかし、床屋さんに行ってさっぱりしたのだから春の気分なのかもしれない。2月になって髪の毛が気になっていた。髪の毛と言っても、この年になってふさふさとはえるわけでもないが、それでも三ヶ月もカットしないと気になり始めるのである。それで、床屋さんに行くことにする。歩いて15分くらいの場所である。だから行く前に電話をして、開店しているか確認している。お店のお休みは火曜日であるので他の日にしているのであるが、休みの場合もあるのである。前回、11月に床屋さんに行ったのであるが、少し前までは休店していたのであると言われる。庭の木の手入れをしていて、脚立から転落して腕を骨折し、しばらく入院していたのだと言われる。もはや回復しているといわれだのであった。だから、休店もありうるので電話して確認しなければならないのである。電話すると、懐かしい声の床屋さんが応対される。ところが、今は閉店されたのだと言われる。とうとうその日が来たか、と思ったのであった。行きつけの床屋さんはかれこれ94歳である。数年前にその床屋さんを利用し、年齢を訪ねたことがある。その頃で90歳に近かった。この老齢の床屋さんを利用するようになったのは、2010年に六浦の家に転居してから2、3年後であると思う。大塚平安教会を2010年3月に退任し、4月から六浦に家の生活になる。いろいろと生活の変化を体験し、いろいろと模索しながら生活に馴染んでいくのであるが、床屋さん選びが課題であった。その頃は、まだ70歳台であり、今よりは髪の毛もあったわけである。それでも二ヵ月に一度は床屋さんに行かなければならない。毎回、異なる床屋さんに行くこと五店である。どこの床屋さんも馴染みに慣れないのであった。おしゃべりの床屋さん、2時間もかける床屋さん、少々雑な床屋さんなどが理由である。床屋さんを渡り歩いて、六番目の床屋さんが、今まで行きつけの床屋さんになる。最初に行った頃も80歳台であったが、年齢に関係なく、黙って仕上げてくれるので好みとなる。最初に髪型を告げたていたので、その後は何も言わなくても、座れば仕上げてくれるのであった。我が家の子供たちが、むしろ心配する。剃刀を使うとき手が震えてないかと。90歳になってもしっかりとしていたと思う。94歳であると聞いたとき、もう長くはないのかなとは思ったものである。そしてついに閉店になったのであった。それで、今度は同じ町内にある床屋さんを利用することにした。実は、こちらの床屋さんは私が神学校に入る前まで利用していたのである。その頃は23歳と言うことになる。小さい頃からこの床屋さんのお世話に待っていたのである。その頃の床屋さんはもはや逝去されており、息子さん夫婦が後を継いでいたのである。ところが息子さんも数年前に逝去され、今は息子さんのお連れ合いが床屋さんなのである。この床屋さんは私の家からすぐ近いのである。こちらに転居した時から利用すればよかったのにと思う。これからは高齢なのだし、歩いても数分のこの床屋さんにお世話になろうと思っているが、限りのある髪の毛なので、自分でカットしてもいいのではと思ってもいるのだが。

床屋さんでもらったボールペン
孫の義也君の誕生日の写真

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