隠退牧師の徒然記<547>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<547>
2020年8月24日「草ぼうぼうを眺めつつ」


聖書の言葉
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
(マタイによる福音書6章30節)


前回は髪の毛ぼうぼうなので、床屋さんに行ったこと、いくつかの散髪屋さんを思い出したこと等を書き留めておいた。髪の毛ぼうぼうと共に、日々気になっているのが、庭の草ぼうぼうなのである。そのため今は暑いので、まだ陽が照らない午前7時頃に草刈りを行うのであった。この際、一気に庭の草ぼうぼうを片付けてしまおう、とは草刈り前の思いでもある。ところが草刈りを始めて30分もしないうちに音を上げてしまう。もうそれで草刈り作業は終わりとなる。シャワーを浴びて、一休みもすれば、午前も終わりとなりつつある。草刈りを一気にできないのである。加齢と共に根気がなくなり、力も無くなり、持続する力も無くなっているのである。なんともままならぬ自分の体だにいらだちつつ、まあ、それならそれで気長にやろうと思うのである。それで毎日はできないが、できる日に少しずつ、一日30分でも、15分でもいいから、根気よく続けることである。そのように少しずつ草刈りをしたら、結構すっきりする様になる。大雑把に作業をしているので、今度は仕上げの作業をすることにしたのであった。
少しずつ作業を進めることで、昔の整地奉仕が思い出される。中学生の頃から横浜の清水ヶ丘教会に出席していた。高校生にもなっていた頃、整地奉仕なることが始まったのである。教会の西側は小高い山になっている。そこを平らにして建物を建てるのだと言われていた。そのため教会の皆さんが、日々整地奉仕に赴いていたのである。夏休み中は毎日出かけては土運びを行っていたのである。まだ高校生であるが、若い力がみなぎっていたのであろう。一日整地作業をしても疲れなかった。楽しかったのである。整地作業をしながらも、楽しく交わりつつ行っていたのである。小高い山を崩して、どのようなものになるのか、まったくわからなかったが、少しずつ進める整地作業を喜んでいたのである。そして、数年後であるが、そこには教育館なる建物がができ、今では幼児施設として使用されている。私たちの結婚式は清水ヶ丘教会での挙式であったが、披露宴はこの教育館なのである。また、姉の美喜子の葬儀は、教会の建物が新しく建て替えられ中であり、この教育館で行われたのである。
汗水流して基礎造りをしたのである。今の清水ヶ丘教会を示されるとき、おぼろげながら昔の整地奉仕が示されるのである。少しずつ進める作業でも、必ず楽しい終着点になるのである。そう思うと、朝15分の草刈り作業でも、いつかはきれいな庭になるのである。庭用のテーブルとイスが置かれている。その庭のイスに座って、きれいな庭を眺めながら、しばし過ごすこと、決して夢ではない。今はそのイスに座って、草ぼうぼうの庭を眺めているのであるが…。

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中学・高校生の頃、教会の整地奉仕を行っていた。
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そして、数年後にできた教育館。いろいろと使われている。
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草ぼうぼうの庭を何とかしたいと。
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まあ、大雑把であるが、なんとか刈り込んで。
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日々、この椅子に座っては庭を眺めていようか。

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