隠退牧師の徒然記<575>

牧師の隠退徒然記(2016年3月1日~)<575>
2021年3月8日「輝く星を世に送り出し」


聖書の言葉
あなたがたは、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光からあらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。(エフェソの信徒への手紙5章8-9節)


輝く星を世に送り出すときとなった。いわゆる卒業式である。幼稚園であるので「卒園式」と称している。しかし、私は「卒園式」と言わないで「卒業式」と称しているのである。幼稚園の場合、どうして「卒園式」と言うのであろうか。学校の場合は卒業式と称している。それは小学校、あるいは中学校の過程を修了したので、その業を卒業したことを記念して「卒業式」と称しているのである。そうであれば幼稚園の場合も同じである。幼稚園の過程を修了したので卒業式と称すべきなのである。「卒園式」と称すると、幼稚園との「お別れ」の意味合いとなるのではないだろうか。幼稚園としては、送り出した子どもたちとお別れしたのではない。幼稚園を土台として世に輝く星を送り出したのである。送り出した子どもたちではあるが、いつもその子どもたちを覚え、お祈りしているのである。そのように示されながら幼稚園の卒業式に臨むのである。
この3月で勤めていた幼稚園を退任するので、今後は輝く星を世に送り出すことはなくなる。最後の卒業式なのである。前任までの幼稚園、そして今回の幼稚園の卒業生は、40年間となり、輝く子どもたちを世に送り出してきた。いずれもキリスト教幼稚園であり、神様の御心に養われ、輝く星となって卒業していったのである。毎年、輝く星を送り出す喜びを与えられていたのである。幼稚園の卒業式では、卒業証書を渡しながら、卒業するお友達の頭に手を置き、祝福のお祈りをするのである。「神様を愛し、人々を愛する人になりますように」とお祈りする。そのように歩むことが祝福の人生なのであり、世に輝く存在になるのである。40年間で、詳しい人数はわからないが、約1000名にもなると思う。そのように多くの輝く星が世に存在することを喜んでいる。
毎年、卒業する子どもたちには新約聖書を贈呈している。その聖書の扉には園長として記念の言葉を書いている。聖書の言葉をそのまま励ましの言葉にしているのである。「地の塩、世の光になりましょう」と記している。一人一人の名前と共にこの言葉を筆字で記すのであるが、時には思い出して、心に示されてもらいたいのである。今までも数人の皆さんから、記念の言葉を大事にしていると言われている。記念の言葉は、どこかで生きるということである。そして、本人を励まし、導くのである。
私が神学校を卒業するとき、校長先生が卒業生を自宅にお招き下さり晩餐に預からせてくれた。その時、卒業生に校長先生自筆の色紙をくださったのである。その色紙は卒業以来、私の書斎に掲げられている。「ただ、この一事を務む」と記されている。牧師でありながら、いろいろなことに気を回すこともある。そんなとき、何時もこの色紙の言葉で修正されていたのである。世に輝く星の皆さんが、神様の御心により、いよいよ光り輝きますように…。

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神学校卒業時に校長先生から贈られた色紙に励まされ。

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