隠退牧師の徒然記<584>

牧師の隠退徒然記(2016年3月1日~)<584>
2021年5月10日「何をして過ごそうか」


聖書の言葉
アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしはあなたを祝福する。」
(創世記17章1-2節)


「もうこんな歳なんだ」とつくづく思っている。82歳の誕生日を迎えたのである。現役を隠退したのは2011年であり、その時は72歳であった。30年間務めた教会を2010年に退任したが、続いて他の教会の留守番牧師を担う。それも半年である。その後はどこの教会にも属さないのであるが、娘がピアノの演奏活動をしているスペイン・バルセロナに赴く。2011年には一ヶ月半、2012年には二ヵ月、2014年には三ヶ月の滞在である。2013年にはマレーシア・クアラルンプールで三ヶ月過ごしている。現地の日本人教会の牧師を勤めたのである。そんなことで外国を行き来していたのである。そして、2016年から二年間は横浜の本牧にある幼稚園園長を担うことになる。その任が終わると、引き続き伊勢原の幼稚園に努めることになる。それが三年である。従って、2011年に現役を隠退しても、外国に行ったり、幼稚園の勤めをしたり、2021年3月にようやくお勤めから解放されたのである。ようやく隠退の日々を歩むようになったのである。そして誕生日を迎えたのであるが、思わず「もう、こんな歳なんだ」と思ったのである。
29歳で牧師になり、お勤めをしながらも、本というものをひたすら求めていた。今は読めなくても、隠退したら読書三昧に過ごすためである。次第に増えていく蔵書の置き場所に悩みつつ退任する。そして、隠退後の家に蔵書を収めたのであるが、ここでも収めきれないのである。それでもある程度書棚に収めたのであるが、さて読書三昧で過ごすか、となる。ぎっしりと収められた蔵書を示されながら、何のために本を集めたのか、考え込んでしまうのである。今は紙の時代ではないことを示されているからだ。いくつかの辞書が積まれているが、紙の辞書がなくても、ネットで検索すれば、どんな言葉の意味でも知ることができるのである。小説の類もいくらかは書棚に並んでいるが、小説でもネットで読むことができるである。
何をして過ごそうか、今までは考えたことはない。まず手帳を開けば、その日の予定がぎっしりと書かれている。ネットもメールを開けば、いくつかの連絡が入っている。それらを処理しながら一日が始まるのであった。ところが、今は手帳の予定欄には何も書かれていない。一ヶ月間を見ても、ほとんど予定が記されてないのである。今までは予定されていたことをこなしながら過ごしていたのであるが、今は「何をして過ごそうか」と考えながら一日が始まる。このことを悩んでいるのではなく、むしろ喜んでいるのである。今までは予定に縛られていたが、今は何でもできるということである。「もう、こんな歳なんだ」と嘆いているのではなく、「まだ、こんな歳なんだ」と喜びたいのであるが…。

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今でもお招きいただいて教会の講壇に立ち、説教を担当している。
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金沢自然公園で、かなりの階段を上り。
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孫とも楽しく過ごしながら。
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今は本の背読で喜んで。

noburahamu2.hatenadiary.org