隠退牧師の徒然記<744>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<744>
2024年9月26日「いつまでもお交わりが導かれ」
聖書の言葉
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。(ヨハネによる福音書15章13-15節)
9月19日は連れ合いのスミさんの誕生日である。85歳になった。我々夫婦は同じ年の生まれで、私は5月で、既に85歳になっている。二人が出会ったとき、たとえ四ヵ月でも誕生日が遅いことを喜んでいたスミさんであった。なぜか連れ合いより少しでも年齢が低い方がうれしいとか。しかし、9月を迎えると夫婦は同じ年齢となる。二人で仲良く一、二、三と私は思っているのだが…。9月は敬老の日を迎える。住んでいる町内会が高齢者のお祝いをするので、年齢調べの回覧板が回って来る。その場合、9月1日現在の年齢を書くことになっている。私は当然85歳と記入しているが、スミさんはまだ誕生日前なので84歳なのである。そのことで喜んでいるのであるが。このことは以前からのことであり、今は気にもしないようである。その今のスミさんは寝たきりの状態になっている。数年前に具合が悪くなり、病院に三週間入院する。退院を喜んだのであるが、歩けなくなっていたのである。三週間、病院では寝たきりの状態であったようだ。今は寝たきりのスミさんと共に過ごしているのである。そのスミさんについて最近のことを書き留めておこう。毎年のことであるが、年末になるとクリスマスカードを送ってくださる方がある。スミさんが結婚するまでの頃、教会学校の先生をしていた。幼稚科の担当であったとか。それで、結婚式に当たり、幼稚科に通っていた姉妹に、下の子にフラワーガール、上の子にベールガールをお願いしたのである。その後、上の子が成長し、幼稚園の職務を持つようになり、毎年クリスマスカードを送ってくださっている。いつも、その後の歩みについてお知らせくださっている。ところが昨年の暮れにはクリスマスカードが送られてこなかった。特別に気にもしなかったが、今年になってお手紙をくださる。カードを失礼したのは母上様のご逝去であるそうだ。スミさんは、むしろ二人の姉妹の母上様と親しくしていたのであった。だから、私達二人が出会ったとき、その母上様のお宅に伺いご挨拶をしたものである。それで、いつもカードをくださる方が、母上様のご逝去をお知らせくださりながら、スミさんと母上様との関係をお尋ねになられたのであった。学校関係の知人なのか、職場関係の知人なのかと言うことである。言うまでもなく、スミさんと母上様との関係は、母上様が二人のお子さんを教会学校に通わせたことの出会いなのである。それと共に妹さんのフラワーガールの写真があるが、自分のベールガールとしての写真はありませんとのことである。結婚式の写真はいくつか送ったのであるが、彼女の大事な写真は送ってなかったのであった。早速、送ったのであるが、55年も前の写真である。それと共に母上様のご逝去をお悼み申し上げたのであった。連れ合いのスミさんの事柄に触れながら、現在の私たち夫婦の歩みをお知らせした次第である。「去る人は日々に疎し」との言葉があるが、私達にとって、出会いの人々は忘れられないのである。いまだに誕生日やクリスマス、新年等にはご連絡を下さり、消息をお知らせくださっていること、いつまでも続く出会いをうれしく思うし、続けていきたいと示されている。スミさんの60年も前からの知人のお便りをいただいて示されたのであった。




隠退牧師の徒然記<743>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<743>
2024年9月20日「復活を考えてみて」
聖書の言葉
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。こころを新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれるかわきまえなさい。
(ローマの信徒への手紙12章2節)
復活を考えてみているのであるが、今は秋であり、イエス・キリストのご復活を示されるのは春である。3月の後半か4月の始めが復活祭である。その頃はイエス様のご復活を示されては力をいただき、弱気を覚える自らが希望と力を与えられる。ご復活の記念として卵をいただいたり、それなりのイベントがまた楽しみでもある。さて、今ここで復活祭の内容を鼓舞しているのではなく、このところの体験により、しきりに復活を示されたのである。それも自らが復活を示されたのではなく、ある方の思いが、自分の体験が復活と重なると示されたのである。すでに記しているが、我が愛車が事故にあった。8月22日のことである。知人のお招きをいただき、一時帰国中の娘の羊子と孫の義也と共に横浜の中華街に赴く。もはや85歳にもなっているので、車の運転は控えているので、娘の羊子が運転してくれる。中華街の中にある駐車場に置き、楽しい食事をいただく。約2時間して楽しいお交わりを終え、駐車場に戻った時、空いた口がふさがらなかった。我が愛車のバンパー付近がめちゃめちゃに破損しているのである。こんな駐車場の中なのに、こんな事故に会うなんて、と思ったのであるが。ところがフロントのワイパーに紙が挟んであった。警察からの連絡である。事故を起こした人が申し出ているので、連絡してほしいということであった。すぐ警察が来て、また事故を起こした人も来たのであった。事故をおこした人は久しぶりに夫婦で中華街に来たのであるが、誤って事故をおこしてしまったと言われる。とにかくその日から修理に入り、ようやく修理が終わった連絡を受けたのが9月12日である。すぐに取りに行かれないのであるが、9月19日になって次女の星子夫婦と共に我が愛車を取りに行ったのである。修理後の愛車を見たとき、新車の見る思いであった。フロント部分が新しく交換されていたので、今までの車とは見違えるほどであった。ところで、今回は「復活を考えてみて」と題して書いているのであるが、新しくなった愛車を見て、「復活」と言う思いはみじんもなかった。その後、ある方のお手紙により、愛車の復活という観点になったのである。さらにまた、私自身の自己体験が復活を示されるのは、その方のお手紙によるのである。4月4日に所用で横浜の桜木町に行く。所用の場所が道路の向こうなので、横断歩道もあるが、陸橋もあるので、その橋で向こう側に行こうとした。その橋の橋げたが木製なので興味があったからである。上り始めたことは何となく記憶にあるが、意識を取り戻したのは病院の中である。病院の人から連絡先を問われている。どうやら怪我をしたことが示されてくる。連絡先を問われ続けているので、ふと思ったことは、今日は連れ合いがデイサービスに行っており、夕刻5時になると送られてくる。家には誰もいない。夫婦二人で生活しているからである。その時、とっさに言ったことは、お世話になっているケアマネさんである。六浦ケアプラザと、喘ぎながら言ったのであった。そして、スマホを示して意識がなくなったのであった。お医者さんが言うには、その時点で死んだのだと。病院の人が六浦ケアプラザを探し、ケアマネさんに連絡してくれたのであった。家族についてはスマホのラインを開き、家族にたいして連絡するように連絡を取ってくれたのであった。どのくらい死んでいたのか確認してないが、気がついたのは、ベッドに寝かされており、身体全体が動かないということであった。その動かない身体をリハビリの先生たちが毎日関わってくださり、次第に動くようになる。食べ物も栄養剤を鼻から注入していたのであるが、次第に口から食べるようになる。こうして三ヶ月の入院が終わり退院したのであった。6月28日のことである。その時点でも、私の体験で「復活」との思いはなかったのである。それから約二ヶ月を経て連れ合いのスミさんの誕生日を迎える。もちろん家族のみんながお祝いしたのであるが、数人の知人からもお祝いをいただく。そのお手紙により、愛車の事故と言い、私の事故体験と言い、いずれも「復活」のことが重くかぶさるのであった。連れ合いのスミさんへのお祝いのお手紙と共に、私の回復を喜んでくださり、記されていたことは「復活されたなんて、本当の神さまみたいだね」と姉妹で話し合ったということであった。単に「回復」ではなく「復活」であるとすると、なんか、再び、あのこと、このことに関わらなければならないと思うのであった。そう、私は復活したんだと、重く示されているのである。もちろん、私は神様ではない。


隠退牧師の徒然記<742>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<742>
2024年9月5日「免許返納もありうるので」
聖書の言葉
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。こころを新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれるかわきまえなさい。
(ローマの信徒への手紙12章2節)
もはや85歳にもなっているので、車の運転は控えている。だから、もう車を置いておく必要はないのである。しかし、スペイン在住の娘・羊子が、少なくとも年に一度は一時帰国する。いつも二ヵ月は滞在する。その場合、やはり車がないと本人の活動のためにも不便である。車の維持を羊子の責任のようにしているが、やはり自分のためでもある。車があれば、時には買い物に使うこともある。それは気持ちだけで、運転することはないのであるが。もう一つは、我が家の駐車場に車を停めておきたいのである。何しろ、我が家には三台も止めることができる駐車場がある。2006年に古くからある我が家を解体して新築した時、かなり土地が余る。もちろん庭にするのであるが、皆さんが来られることが多いことを想定すれば、なるべく駐車場が多い方が良いと思ったからである。実際、我が家で六浦谷間の集会として、クリスマス礼拝等には数人の方が車で来られる。そして、現在も連れ合いの看護でお医者さんや、看護師さん、薬屋さん等、車で来られる方が多くても、我が家の駐車場で事足りるのである。そんなわけで、見えでもあるが車を置いているのである。こんなことを報告しているのは、この8月に車検を受けたことによる。車検を受けるか、もはや放棄するか、さんざん熟慮していたのであるが、上記したような次第で、もう少しおいておくことにしたのである。そのようなあまり生活上必要でもないので、罰が当たったのか、単なる事故なのか、我が家の駐車場には「わ」ナンバーの代車が置かれている。8月の末に知人が、羊子がバルセロナに帰る前に食事を共にしたいということで中華街に招待してくれる。私の退院をお祝いしてくださることでもあり、お相伴にあずかったのである。中華街で食事をするのは久しぶりである。あまり覚えてないが、2018年頃にやはり招待されて中華街で食事をしたと思う。相変わらず中華街は混雑しており、なんでこんなに人がいるのだろうと思うのである。聞いたことであるが、こんなに多くの人がいても、食事処を利用する人たちは少なく、店先での食べ物を買っては、食べ歩きしているのであるとか。日本の国でありながら、中国系の中華街がにぎわっていることに、なんか、違和感を持つ。中華街の店でおいしい食べ物をいただき、お腹いっぱいになって駐車場に向かう。駐車場の二階に置いてあるのでエレベーターで行く。ドアが開かれたとき、まなこに飛び込んできたのは、わが乗用車が哀れな姿になっている。フロントのワイパーに何やら紙が挟んである。警察からの連絡である。その連絡によると、わが愛車を破損した方が警察に届けたようである。車の持ち主が戻ったら、本人も立ち会うということであった。すぐに警察も来て、破損した本人も来られた。止まっている車を破損したので、修理は全面的気に負ってくれる。それにしても、事故を起こした人は、誰も見てないので、雲隠れする場合が多いのであるが、正直に申し出てくれた。修理が必要なのでありがたく受け止める。加害者は静岡の方で、お休みを利用して、夫婦で中華街に来られたという。そんなわけで、我が家の駐車場には「わ」ナンバーの格好いい車が止まっているのである。そのうち、我が家の愛車、古めかしい車が駐車するのであるが…。



隠退牧師の徒然記<741>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<741>
2024年8月22日「空白の記録 ⑥」
聖書の言葉
サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章8-9節)
いつまでも「空白の記録」を記しているわけにはいかない。そろそろ終わりにしたい。4月4日に歩道橋の上から転げ落ちたと思われる怪我により入院し、三ヶ月の入院生活の区切りをつけたのは、むしろ自分なのである。退院と思われる口調が看護師さんからも、リハビリの先生達からも伝わってきたのであるが、その日がいつであるかはどなたの口からもきかれない。主治医の先生も退院については言わないのである。リハビリも毎日しているし、大分身体の機能も戻ってきたし、もう家に帰れるのではないかと思う。それで、7月の始めに退院したいことを看護師さんに伝える。看護師さんは主治医に伝えるということであった。しかし、その後、退院については何も告知がない。それで看護師さんに6月28日に退院したいと告げる。こちらがはっきりとした決意を述べたことにより、看護師さんも受け止めてくれ、主治医にも伝え、了解されたのである。従って、こちらから退院日を指定しなければ、まだ入院が続いたのかもしれない。自分でも自覚していることは、リハビリを続けるということである。日々、リハビリをしていただくことで、随分と身体の機能が回復したと思っているのである。命の生還から身体の機能の回復のためのリハビリ、三ヶ月の入院生活を心から感謝している。退院が決まったので、家族とケアマネさんに来てもらいたいと言われる。当日は次女の星子とケアマネさんが病院に来てくれる。現在の本人の様子、家に帰った時、どのような生活ができるか等、いくつかの確認をするのであった。そして、6月28日、次女が迎えに来てくれて病院を後にしたが、なんとも気が残る再出発であった。
病院では杖を持っての生活訓練はなかったが、家に帰っての歩みを始めたとき、やはり杖は必要であると示される。しっかりと立っているつもりでもよろけてしまうのである。家の中ではつかまるところがあるが、外歩きは杖がないと危ないと示されている。退院後は、長女の羊子がスペインから一時帰国中であり、家事についてはすべて請け負ってくれている。外歩きはほとんどしていない。ゴミ捨て日には、ゴミを置く場所までは4、5分であり、そのくらいなので捨てに行こうとしても、羊子がしてくれている。快方に向けてきたこともあり、いくつかのところから連絡がある。一つは三崎教会である。4月4日に怪我をして入院してしまったので、予定していた4月28日の礼拝説教はキャンセルとなる。それで、もうそろそろ講壇で説教ができるのではないか、と思っていたら三崎教会から連絡が入る。8月25日に伺うことにした。そうしたら横須賀上町教会の杉野信一郎先生より連絡が入る。9月15日の礼拝説教の依頼である。杉野牧師は翌日から正教師試験があるので、準備に集中したいのである。しかし、当日は車の手配が困難であること、長歩きは止められることなどを話すと、杉野牧師が送迎をしてくれるという。ありがたくお受けした次第である。この「空白の記録」を六回に分けて記したが、もうこの辺で終わりとしたい。4月4日以来、命の生還から、通常の身体に戻してくれた皆さん、そして背後にあってお祈りしてくださった皆さんに篤く御礼を申し上げます。
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隠退牧師の徒然記<740>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<740>
2024年8月15日「空白の記録 ⑤」
聖書の言葉
サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章8-9節)
4月4日に大怪我をし、一度は死の中に置かれたが、お医者さんが適正な処置をしてくれて、なんとか命をとどめ、三ヶ月の入院生活をしたことについて記している。
6月16日の記録。今日は日曜日、本来なら礼拝をささげるのであるが、入院以来、礼拝をしていない。隠退しているが六浦谷間の集会として礼拝をささげているのである、そのため、週日は礼拝の準備と言うことがある、説教を作る、週報の用意をする、ブログを書く等、一週間を結構忙しくすごしていたのである。入院しているので時間は十分あるのだが、気力がない、礼拝に向かう姿勢もないのである。病院にいるのだから礼拝はできないのであるが、自分なりに礼拝の姿勢で過ごすことである。聖書を読みお祈りをする、それだけでも礼拝なのである。今迄は、その姿勢もできなかったが、ようやく礼拝の姿勢ができるようになったということである。一つは、娘の星子に新約聖書を持ってきてもらったことである。書斎に置いてある聖書は、旧約聖書と新約聖書、さらに旧約聖書続編が一冊になっているので、かなり分厚くなっている。それを持ってきてもらうには、重くて、荷物になり申し訳ないと思っていた。それで、皆さんに配布用の新約聖書があるので、それを持ってきてもらう。これなら病室でも邪魔にならず、引き出しにもしまっておかれる。入院中、全部を読むつもりで、最初から読み始めている。時間があるというが、この入院生活は結構忙しいのである。毎日の生活はリハビリに明け暮れるということである。リハビリについては前記している。その合間をぬって聖書を読んでいるが、リハビリ後は疲労のために、居眠りとなる。また、いつも聖書ばかりを読んでいられない。それで、読みかけの本を持ってきてもらう。塩野七生さんの小説三部作の「黄金のローマ」である。「緋色のヴェネツィア」、「銀色のフィレンツェ」の物語の最終をつづっている。その中ほどまで読んでいるのであるが、これらの本はいずれも九回は読んでいる。歴史小説でもあり、中世の地中海を中心に描かれている歴史を面白く記しているのである。その読みかけの本を持ってきてもらったが、瞬く間に読み終えてしまう。それで、ホールの一角に本棚があるので、覗いてみる。現代ものの小説が多いが、その中に平岩弓枝さんの小説があり、その一冊を読むことにする。「御宿かわせみ」シリーズは良く知られており、時にはテレビで物語を見ている。そのシリーズの傑作選三巻があるので順次読むことに。平行して聖書も読んでいるが、平岩さんの小説も,三巻をすぐに読み終えてしまう。それで、さらに読みたいとホールの本棚を見ると、葉室麟さんの「緋の天空」という小説があった。奈良時代の藤原家の一族、藤原不比等の娘、光明子の物語である。かなり分厚い文庫本であり、しかも登場人物の名前が読めないのであるが、興味深く読んだものである。今回のブログは聖書を読むことの報告と共に、いくつかの小説を面白く読んだことを記したが、新約の聖書は瞬く間に読んでしまった。旧約聖書も持ってきてもらいたいが、もう間もなく退院だろうと思い、頼まなかった。入院生活はリハビリと読書の成果を示されている。
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隠退牧師の徒然記<739>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<739>
2024年8月8日「空白の記録 ④」
聖書の言葉
サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章8-9節)
4月4日に大怪我をし、一度は死の中に置かれたが、お医者さんが適正な処置をしてくれて、なんとか命をとどめ、入院生活をしたことについて記している。4月5月を経ているので、もう退院ではないかと思わせられたことで、いくつかの事柄を前回記している。リハビリは上肢と下肢とに分かれ、それぞれの先生が担当してくれている。さらにリハビリはもう一つの処置処がある。今回、歩道橋の上から転げ落ちたと思われる怪我であり、身体のどこかが骨折したのではないかと思われるが、骨折はないにしても首を痛めたのであった。その痛みにより首が腫れ、息ができなくなる。それで死んでしまうのであるが、肺に管を通し、空気を送り込んで息ができるようになり、命の生還となる。骨折はないものの、身体全体の機能が停止してしまい、リハビリで回復へと向かう。もう一つ、リハビリをしなければならないのは首の損傷であり、喉の状態である。怪我の当初は食物の通りができないので、鼻から管を胃までとおし、栄養剤を注入する。しばらく栄養剤の注入であったが、とにかく口から食べることができなければならない。まずゼリーを食べてみる。何とか食べられそうなので、食事はいずれもゼリー状にして食べることになる。この指導をするのが喉のリハビリの先生である。ゼリー食が終わるころから刻み食になる。全ての食事を細かく刻んで食べることになるのである。そして、
このころから喉のリハビリが本格的になる。息の出し方、喉の使い方等のリハビリである。声の出し方では、自分自身気にしていたが。大きな声を出すリハビリで、元の自分の声のような気がするのである。このリハビリは個室であり、大きな声を出すことでは、他者に迷惑にならない。大声を出すことで精神的にもリハビリとなるようだった。このリハビリで、喉の通り具合をチェックするのであるが、食べ物は通るのであるが、水分に限り、喉にかかるので、水分はトロミを付けて飲むことにする。水分を補強するために「お茶ゼリー」をいつも食べるようになる。食事にはお茶が出るものであるが、お茶ゼリーとして出される。薬を飲むときもお茶ゼリーにより服用するのであった。何事も水分にはトロミを付けることで、上肢や下肢のリハビリの先生達ともいろいろ雑談をする。その中でワインを飲むときにもトロミをつければ良いのか、課題になり喉のリハビリの先生に尋ねてみる。それは自分が答えることではないので、主治医に聞いてもらいたいとのことであった。しかし、さすがに主治医に聞くには気が引ける。結局、その件については課題としておいておくことにした。そしてもはや三ヶ月にもなるので退院を申し出る。看護師さんに申し出て、主治医の承認となる。それが6月28日になる。退院の日には星子と宮田さんが迎えに来てくれる。久しぶりに我が家に入り、まず連れ合いのスミさんのベットに行き。「ただいまあ」と声をかける。スミさんも「お帰りなさい」と言い喜んでくれた。課題のトロミについては、もともとトロミの粉があり、飲料はすべてトロミとしている。7月25日は退院後最初の検診であり、主治医から特に問題がないと言われる。一緒に付き添った羊子が、アルコールについて尋ねたりしていた。なんにしてもトロミをつけることで…。


隠退牧師の徒然記<738>
隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<738>
2024年7月25日「空白の記録 ③」
聖書の言葉
サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。(使徒言行録9章8-9節)
6月8日土曜日の記録。いよいよ退院ではないかと思う。医師から言われたのではないが、看護師さんにしても、リハビリの先生にしても、何となくそんな口癖なのである。看護師さんが、次女さん(星子)とケアマネさんに来てもらいたいという。退院して家に帰ったとき、どういう生活ができるかと言うことで、本人のリハビリの状況を見てもらいたいというのである。ケアマネは既に連れ合いがお世話になっている方に、私の状態のケアマネになっていただくことをお願いしてある。それで、星子に来院について連絡したところ、ケアマネさんは忙しいので日程が決められないだろうと言う。そこで改めて看護師さんに尋ねたところ、次女さん一人でも良いという。いろいろと私の今の状態を説明し、家に帰った時のことを相談すると言われる。そのうえでケアマネさんに来てもらいたいと言われるのである。そのことにつては星子に連絡しておいた。そんなわけで、退院が近いと思われるのである。そんな思いがあるので床屋に行くことにした。この病院はリハビリ等で長く入院する人が多く、床屋さんもあるのである。前回、床屋さんに行ったのは2月15日である。この日の床屋さんは、今まで利用していた床屋さんではなかった。もうずいぶん前から利用していた床屋さんは、御年90
歳を過ぎていた。それでも今まで利用していたので、2月になって行こうとしたら、すでに閉店したと言われる。それで我が家から近い床屋さんに行ったのである。それ以来、床屋さんには行ってないので病院の床屋さんを利用することにしたのである。6月7日に予約が取れ、当日は病院内にある床屋さんであるが看護師さんに送り迎えをしてもらう。四ヵ月ぶりの床屋さんなので、随分と長い毛になっていたであろう。それであまり短く散髪すると、いかにも床屋さんに行ったことが知られてしまうので、髪の毛は裾狩りとしておいたのである。それでもリハビリの先生も看護師さんも、散髪を見分けてしまう。しかし、看護師さん達は本人を確認しなくても、何もかもカルテに書き込んでいるので、私の床屋さん行きは看護師さん全員が認識しているのである。退院が近いと思われるので床屋さんに行ったが、退院が近いと思わせられることが他にもある。入浴のことである。入浴は週に二度、火曜日と金曜日であった。それが月曜日と木曜日になる。入浴のランクが上がったからである。今迄は入浴と言っても裸になり、横になっていると担当者が全部あらってくれる。湯舟には入らない。コロナ感染に注意していた頃、湯船に入っていたことでコロナが感染したと言われる。それ以来、湯船入浴は禁止となり、シャワー浴となっている。ランクが上がったので、今度は一人で椅子に座り、シャワー浴となる。それも6月7日からである。6月になって食事が「刻み食」になる。今までは、食事はすべて「ゼリー状」であり、飲み込みやすい食事であった。「刻み食」は形はないが、料理をすべて刻んで出される。食事の時には、内容の紙が添付されているが、料理はみんな刻まれているので、みんな同じようで何を食べているのかわからないという感想である。それでも「ゼリー状」食より良いと思う。普通食に近づいた思いである。食べることができる、生きているということなのだ。


