隠退牧師の徒然記<730>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<730>
2024年26日「春に向けて ④」

聖書の言葉
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。(ヤコブの手紙5章7節)

キリスト教の暦は、今は「受難節」としての歩みである。受難節とはイエス・キリストの十字架への道を偲び、人間の救いのためであることを深く受け止めて過ごす季節なのである。今年は2月14日から受難節が始まり、3月30日まで続く。この期間、キリスト教の人々は質素に生活することになっている。その受難節に入る前、しばらくは質素の生活をするので、それなら今のうちに美味しい肉をたくさん食べ、楽しく過ごそうということになる。それがカーニバルと言うものである。いわばお祭りであり、本来の意味も知ることなく楽しく過ごしている人々もあるのである。日本でもクリスマスと言えば楽しいパーティー、プレゼントなのであり、クリスマスの意味も知ることなく喜び合うことと同じなのである。「春に向けて」の一つの主題として「受難節」を記しているのは、受難節が終われとき、まさに春爛漫の時を迎えているからである。イースター、復活祭は3月下旬から4月の中旬頃に迎えるので、まさに春を喜んでいるときになる。キリスト教ではイエス・キリストのご復活をお祝いする時なので、復活の喜びと共に暖かい春を喜びつつ過ごすのである。そういう意味で受難節は春に向けての歩みなのである。受難節は質素な生活をしつつ過ごす。その姿勢を身をもって実践する方がおられた。受難節は甘いものは控えるとの生活を実践されていた。週日の夜の祈祷会に出席される。集会が終わるとお茶が出るが、時には甘いお菓子なども出される。その方はいっさい口にはされなかった。お連れ合いに聞くと、抜け道があるのですよ、と言われ、お勤め先ではビールなんか飲んでくるのですよ、ということであった。教会では質素の生をしつつも社会的にはそれなりに歩まれていたのである。それはそれで結構であると思う。キリスト教でも高齢の皆さんは、昔からの信仰の生活が身についており、この受難節の期間には厳格に質素の生活を実践している。バスを乗るにしても一つ、二つの停留所を歩いているとか、お茶断ちをされる方も、飲みたいコーヒーでも喫茶店には寄らないとか。それらを倹約して克己献金としてささげるのである。私の中学生時代、日本基督教団は克己献金袋を配布して、克己の信仰の歩みを求めていた。いつの時代からなくなったのであるが、信仰の歩みは強いられて実践するものではなく、本人の姿勢で歩めばよいのである。キリスト教の国でカーニバルの喜びあいも信仰の姿であろう。そして、受難週と言い、受難節の最後の一週間は、まさにイエス・キリストの十字架の時であり、深く受け詰めつつ歩むのである。その信仰を現わすとき、喜びつつ迎えていたのがカトリック教会であった。受難週のミサには普段教会には来ない子供たちであるが、神父さんと共に聖壇に上がり、棕櫚の枝を床に打ち鳴らしながら、十字架の救いを喜ぶのであった。
春に向けて歩んでいるが、天気が続けば春の近さを示され、雨が続けば春到来の知らせと受け止めるようになっている。受難節は春に向けての歩みなので、受難を示されつつ、日々喜びが増していく日々なのである。「もう春ですよ…」と歌いつつ。

受難週の始まりに、子供たちは棕櫚の枝を持って教会に集まる。バルセロナカトリック教会で。
神父さん共に聖壇に上がり、イエス様を迎える。
受難週はお祭りのように屋台が並ぶ。

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