隠退牧師の徒然記<637>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<637>
2022年5月16日「お祝いを喜びつつ」

聖書の言葉
神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。(使徒言行録2章17節)


5月の始めは言うまでもなくゴールデンウィークであり、長いお休みを楽しむことができる。しかし、休みの喜びはあっても、その意義はあまり考えないのである。休みであり、何の日でもよいのである。現役の頃、施設の礼拝を担当していた。知的障害の皆さんである。5月の始めの礼拝では、「5月3日は何の日でしょう」と聞けば、皆さんの中には正確に答える人がいる。5日の子どもの日については、皆さんは声をそろえて答えるのであった。「5月の第二日曜日は何の日でしょう」と聞けば、これも皆さんは心得ているのである。「それでは5月10日は何の日でしょう」と聞くも、以前はだれも答えなかったが、もはや皆さんの知るところであり、「牧師先生の誕生日じゃん」と答えてくれるのであった。そんなやり取りを思い出しながら、今年も83回目の誕生日を迎える。我が家では家族の誕生日は一緒に集まってお祝いしている。それぞれの成長を喜びつつ、これからも祝福の人生であるようお祈りするのであった。家族からお祝いされることは嬉しいことであるが、他の皆さんからのお祝いも喜びである。幼稚園の先生達からは、サプライズのようにお祝いされたこともある。予期せぬことであり、突然のお祝いに驚いたものである。また、バルセロナに滞在中にも誕生日を迎え、羊子が知人の皆さんをお招きしてお祝いしてくれたのであった。マレーシア滞在中にも誕生日を迎え、牧師館において夫婦二人でお祝いしたものである。
今日まで、どんなにか多くの皆さんのお誕生日をお祝いしたことか。一つは幼稚園児の皆さんへのお祈りである。キリスト教主義の幼稚園であり、お誕生日を迎えた皆さんに祝福のお祈りをするのである。お友達の頭に手をおき、「神さまのお恵みと祝福がたくさんありますように」とお祈りする。40年間、平均して一年間は80人として3000人の皆さんの祝福をお祈りしたのであった。その他には教会学校のお友達の誕生祝福もある。また、教会の皆さんの誕生日会はないが、お祝いのカードを送っている。祝福のお祈りをしつつカードを送るのであった。こうして皆さんのお誕生日のお祝い、祝福のお祈りをしてきたが、やはり自らのお誕生日にお祝いしていただくのはうれしいものである。カードをいただき、プレゼントまで送ってくださる方が今もあるので、いつまでも高齢者を覚えて下さり感謝しているのである。私の父は高齢であることを喜びとしていた。一つでも多い年齢を示したいのである。その意味でも、父は数え年で自分を紹介していた。満〇歳なのであるが、数え年でいうので一つ余計に上乗せしている。だから、父が亡くなったとき97歳であったが、父の願い通り数え年の98歳であったと皆さんに報告したのであった。100歳を目指していたので、もう少しであった。何やら私も父のようになりつつある。数え年でいうのも面倒なので、もう90歳とでも言おうか…。

教会学校のお友達のお誕生祝福。

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