隠退牧師の徒然記<636>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<636>
2022年5月9日「繰り返し示されているが」

聖書の言葉
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
(ローマの信徒への手紙10章10節)


毎年、「母の日」を迎える時、当然のことながら自身の母を思う。もちろんこの時だけではないが、やはり社会的な影響もある。現役時代、自分の存在を証しするためにも、日曜日の礼拝説教において、母の思い出をお話したものである。しかし、毎年、母の日を迎えるたびに同じお話をすること、皆さんは「またか」と思われるということで、母の日の礼拝説教では割愛したのであった。すると、「今年はお母さんのお話はありませんでしたね」と言われるのであった。むしろ聞くことを楽しみにしていたとも。いつも同じお話であったとしても、再び耳にしたいとの思いがあると言われるのである。そう、例えば落語などもいつも同じ内容のものを聞いては笑っている。歌謡曲や民謡にしても同じ歌を聞くことでも、「またか」なんて思わないで全身で受け止めているのである。だから、母の日に毎回同じお話、私の母について証しすること、皆さんは心待ちにしていることを示されていた。
 現在、居住しているところは私の幼少時代から青少年時代に成長した場所である。生まれは横須賀市浦郷町であり、4歳ころまで過ごしている。ところがそこには日本軍の飛行場があった。日本の国は各国と戦争をしている状況であり、飛行場の近辺の住民は危険であるので強制転居となるのである。そのため現在の居住地に転居することになる。周囲を里山に囲まれ、いわば谷間の集落でもあった。この一角に10軒あまりが居住するようになるのである。そして、歩いても10分くらいの場所に共済会病院があった。国家公務員共済会病院である。今は横浜南共済病院と称している。この病院が、実は私の人生の原点にもなるのである。日本が戦争に負けて数年を経たとき、母はこの病院に入院していたのである。戦争疲れである。その頃は私が小学校3年生であるから、戦後3年ともなる。ある日、入院している母をお見舞いしてくれた子ども達がいた。突然、見ず知らずの子供が数人入ってきて、花を差し出しながら、お見舞いの言葉をいただいたようである。思いがけないお見舞いに、大きな感動を与えられたことは言うまでもない。その後、時を経て退院する。ある日曜日、母は私を連れて近くの教会に行くのである。母をお見舞いしてくれた子ども達は近くの教会の日曜学校の子どもたちであり、その日は6月の第二日曜日であった。教会は「こどもの日・花の日」としての行事を行い、お花を飾っては子ども達を励まし、子どもたちと共に病院等を訪問していたのである。母はお見舞いの礼を述べ、これからは「この子」が日曜学校に出席するので、よろしくお願いしますというのであった。そこから私のキリスト教が始まるのであるが、母の願い、「ひと様に喜んでいただく人になる」歩みが始まったのであった。今の自分の原点は、あの病院であり、母の願いでもある。一生の課題を担いながら、その途上にあることを示されているのである。そして、繰り返し原点を証しするのであるが。

母の日に、子どもから贈られたお花を喜ぶスミさん。

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