隠退牧師の徒然記<483>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<483>
2019年6月3日「新しいものに変えながら」

聖書の言葉
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。」(旧約聖書・創世記1章31節)
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものになった。」(旧約聖書・創世記2章7節)

電気洗濯機が作動しなくなってしまい、新しく購入する。もうずいぶんと長くお世話になっている洗濯機である。意を決して新しく購入したのである。娘の星子と共にノジマ電気に行き、並べられている洗濯機を物色する。強力洗濯機、乾燥機付きの洗濯機等あるが、夫婦二人の生活では特別な洗濯機は必要ない。
私のような年代は、洗濯機のない時代から生きているのである。従って、母がいつも盥(たらい)の中で洗濯板を使って洗っている情景が思い出される。私自身も洗濯板でごしごしと洗ったことも思い出される。その盥でシーツとか大きな布を洗うのは大変であったろうと思う。いつのころから電気洗濯機を使うようになったのかは覚えていない。当初は洗濯するだけで「しぼり」なるものは組み込まれていなかった。洗ったものはゴムのロールに挟んで、ハンドルでロールを回して絞るのである。今では絞りもあり、乾燥までしてくれるのであるから洗濯機も発達したものである。仕上げはアイロンまでしてくれる洗濯機が発明されるのかなあ。洗濯機を購入しながら掃除機の物色をする。掃除機はまだ使えるのであるが、昔のものはかなり重い。二階から一階を掃除するので、持ち運びには結構苦労しているのである。それで今どきの掃除機を購入することにした。充電式なので、長いコードは必要なく、二階でも苦労なく持ち運びができるようになる。高齢者にはありがたいと思う。しかし、新しい掃除機は使用後の掃除が大変である。旧式のものは掃除機内の袋に貯められるようになっており、袋を取り換えればよかった。しかし、新しいものは、いろいろと部品を外しては溜まったゴミをとるのである。これが結構時間を要するのである。まあ軽く持ち運べるので喜んで使っているのであるが。
掃除機の少し前には電気釜も新しくしている。これも今までのものも使えるのであるが、この際新しくしたのである。炊き上がったご飯は、今までと変わらないと思うが、何となくおいしく炊けていると思っている。こうして昔は「三種の神器」と称したものであるが、今はそのような呼び方はしなくなっている。ところで、まだ使えなくなったものがある。パソコンである。この際、新しいパソコンを導入している。新しくするまで数日を経ているが、パソコンが使えなくなっているとき、なんとも空白の生活であった。まだまだ自分の思いを書き留めたいし、発信したいと思っているからである。
ところで、いろいろな道具は新しくすればよいのであるが、人間はそういうわけにはいかない。新しい人間にするというのは、職場等の人材の変更ということである。それはそれで新しい取り組みができるであろう。しかし、私自身を新しくするということはできないのである。そのため、人間はお医者さんに診てもらいながら歩むことになる。「100歳の少年と12通の手紙」という映画の中で、お医者さんを「修理屋」と言っている場面がある。確かにお医者に身体の修理をしてもらいながら、少しでも長生きしたいのである。そういう修理しながらの身体であるが、「新しい人」になるのである。新しい人になるのは、多くの場合、宗教的な導きでもある。キリスト教ではイエス・キリストが導いたように、永遠の生命に招かれるという喜びが新しい存在になるのである。
80歳になっても新しい自分であると思っているが、電車に乗ると若い人が席をゆずってくれたりして…。

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伊勢原市の千津公園。このような中にいると新しくなるようで。
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