隠退牧師の徒然記<514>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<514>
2020年1月7日「新しい年を始める」


聖書の言葉
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。
旧約聖書詩編98編1節)


2020年の歩みが始まり、いろいろな思いがあるが、何をするのでもなく、今与えられている日々を歩むことであろう。箱根駅伝で始まり、今年はオリンピック、パラリンピックが日本で開催であり、賑やかな歩みとなるのであろう。
今年も多くの皆さんから年賀状をいただく。日々のお交わりがなくても、一年に一度であるが、お元気に過ごされているお便りはうれしい限りである。失礼ながら忘れていた方からも年賀状をいただき、お元気に過ごされていることを知るのだった。しかし、その年賀状も減少傾向にあるようだ。若い皆さんは、ライン、スマホ等で新年の挨拶を行い、年賀状は書かなくなったという。我が家の子どもたちもラインで賑やかに新年の挨拶を送ってくれている。それはそれで楽しいものだ。スペイン・バルセロにいる羊子家族とは、FaceTimeで新年の挨拶を行う。遠くのスペインにいるのに、現実にお話しができ、画面を通して元気な姿を示されるのである。本当に便利な世の中である。いろいろと文化が発展すると、昔ながらの習慣が薄れて行くのである。ほとんどとは言わないが、年賀状はパソコンで作られ、宛名までパソコンの出力である。以前は、宛名の文字を見ただけで、この年賀状は誰からであると分かったものだ。それが今では、差出人まで読まないとどなたからであるかわからないのである。そんなこともあるので、せめて年賀状は、宛名は手書きにしているのである。宛名を書きながら、その方のことを示されるのであった。
新年のことと言えば、帰省であろう。このふるさとへの帰省については、たとえ文化が発展しても変わらないようだ。毎年のことながら、車であれば、渋滞を覚悟しながら遠距離を帰省している。飛行機の場合は、定員が決まっているが、電車の自由席は150パーセントと言われているので、いわゆるすし詰めで帰省するのであるから大変であろう。それでも故郷の親族に家族を会わせたいとの思いが強いのである。子どもたちも両親の田舎に行くことで、お年玉が期待できるとか。
両親がまだ健在の頃、その頃は綾瀬市の大塚平安教会に赴任していたので、お正月には実家に来たものである。そのお正月には兄弟たちの家族も来るので、大勢で楽しく食事をしたものである。お正月は実家にいる、それが一つの習慣になっていた。しかし、今は、お正月だからと言って、子どもたちが集まるわけでもない。それぞれのお正月を過ごしているのである。夫婦でのんびりとお正月を迎えたということである。そのうち年賀状も帰省も無くなるのでは。パソコンやスマホで会うこともできるし、新年の挨拶ができるからである。

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わが家の年賀状。三崎教会に招かれたとき。スペイン在住の羊子家族も帰省中であった。
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わが家のおせち料理筑前煮である。
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そしてサラダ程度である。
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