隠退牧師の徒然記<486>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<486>
2019年6月24日「手を取り合って」


聖書の言葉
「孫は老人の冠、子らは父の輝き。」(旧約聖書箴言17章6節)
「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、なんと、神はお前の子供たちを見させてくださった。」(旧約聖書・創世記48章11節)


幼稚園では、毎年、この時期に高齢者施設を訪問している。年長組の皆さんが施設を訪問し、歌のプレゼントやゲームなどをして過ごすのである。今年も6月14日に伊勢原の高齢者施設を訪問したのであった。歩いて行かれる場所ではなく、かなり大山山麓に近い場所であり、静かな場所に存在している。バスに乗ること10分余りであり、そこから歩いて10分くらいで目的地に着く。その施設は高齢者ホームと共にデイサービスも行われており、お訪ねしてお交わりをしたのはデイサービスの皆さんであった。その日の利用者は、ちょうど年長組の皆さんの人数であり、ゲームをするにも一対一で行うことができた。年長組の皆さんが一人一人おじいちゃん、おばあちゃんと向き合うことができ、利用者の皆さんも孫との触れ合いを喜んでくださったのであった。
つらつら思うにデイサービスの皆さんは、私とたいして変わらない年齢なのである。私が利用者の一人であっても不自然ではないということである。そう私も訪問をいただいて喜ぶ年齢であるということである。ところがこの年になっても、高齢者を支える活動をしているのであるから、何となく割り切れない思いが、最近は増しつつあるのである。キリスト教シニアホームの入居者を支える活動をしており、しかもその委員長までしているのであるから、いつも矛盾を感じながら職務を担っている。もう25年も昔になるが、神奈川教区の中にキリスト教シニアホームを造ろうと運動を開始する。そのころ神奈川教区の議長をしており、取り組みの議案を教区総会に提出する。しかし、その議案の議論が続くことになるのである。議案の内容は、教区はシニアホームを建設したりすることができないので、キリスト教に理解を示しているその道の会社と提携することであった。ハード面では会社が、入居者のソフト面を教区が担うということであった。すなわち、入居者の牧会、信仰生活の支援ということである。この議案は、キリスト教が会社と提携することの疑義が出され、いつまでも議論が平行することになる。会社はすでにハード面のお膳立てをしてるので、これ以上の平行議論を終えることにし、議案を取り下げたのであった。そして、有志で取り組むことになったのである。それが「神の庭・サンフォーレ」を支える会であり、今でも主事を置き、隔週に礼拝をささげ、教会の皆さんが賛美の集いを開いてくださったりしている。
高齢者が高齢者を支えること、「手を取り合って」歩むことなので、少しも矛盾ではないのであるが、支える側も支えられる状況になっているのである。その高齢者が、中でも孫との触れ合いは大きな喜びなのである。幼稚園の高齢者訪問は大きな意味があるのでは。

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幼稚園のお友達が高齢者ホームをお訪ねし、皆さんに歌のプレゼント。
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高齢者の皆さんとゲームをして過ごす。
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スペイン・バルセロナにいる孫の義也君。いつもFaceTimeで対面しているが。
noburahamu2.hatenadiary.org