隠退牧師の徒然記<560>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<560>
2020年11月23日「柚子の季節を楽しみつつ」


聖書の言葉
木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイによる福音書12章33節)


庭の一角に柚子の木があり、今年も柚子の実が鈴なりに実っている。毎年、この時期になると柚子がたくさん取れるので楽しみとしている。しかし、かなり色づいているようであるが、まだ早いようだ。もうすこしで収穫というところである。収穫した柚子は多量なので、子どもたちも結構持っていくが、近所の皆さんにも差し上げている。柚子なので、そんなに利用しないのであるが、お料理につゆをしぼって食べるとか、皮をジャムにするとか、お風呂に入れるとか、結構喜びとなる。もう数年も前になるが、今ほど柚子の実ができない頃、いくつかの柚子の実を楽しく鑑賞していた。ところが次第になくなるのである。リスが来てはもっていってしまうのだ。我が家の裏は小高い里山のなごりがあり、結構樹木が生えている。そのどこかに住んでいるのであろう。そのリスが電線渡りをするので、上を見上げることしばしばである。その頃の柚子はあまり実がならなかったので、なくなることがわかるのである。しかし、最近は鈴なりの柚子であり、リスがいくつ持っていこうとわからないのである。柚子の鈴なりの収穫に人間が喜び、リスも喜んでいる。平和な時代というべきか。
もうずっと昔のことであるが、庭にはかなり太い梅の木があった。その梅の木からたくさんの梅の実が取れたのである。父も母も亡くなり、家だけが存在していたのであるが、梅の木が鈴木家の存在を証明していたようであった。収穫の時期になり、たくさんの梅の実を収穫し、ご近所にも差し上げたものである。もっとも梅の実を差し上げても、飲み物漬けにするか梅干しにするかくらいなので、何もしないこともある。無人の鈴木家であったが、その頃も源平桃の花が咲いており、桑の花が咲いたものである。無人の家であったが、いくつかの花が存在を証明していたのであった。家の建て替えによって梅の木も桑の木も整理してしまったが、源平桃は残ったのである。そして、柚子の木は新しく家を建て直したとき、庭も新しくしたので、そのときに植えたのであった。
春の源平桃の花、秋の柚子の実、季節の移ろいを楽しみにしている。昨年は品種がわからないミカンの実がいくつか取れたが、今年もいくつかの実をつけている。昨年もいくつも取れなかったが、今年も数えるほどである。食べることより、庭をいろどる存在として楽しみにしているのである。柿の木も楽しみなのであるが、柿の木の葉はかなり大きいので、落葉の頃は結構大変なのである。だから柿の木は育てないことにしている。ひと時はぶどうの木を植えたのであるが、管理が悪く、育たなかった。もう一度挑戦するつもりであるが。今でも源平桃や柚子の木の落葉の頃は、処理が大変なのである。でも、少しは運動になるので落ち葉拾いも喜びとしている。間もなく職務が終わるので、その後は庭を相手に過ごそうかと思っている。そろそろ柚子湯に入ろうかと思っているのであるが。

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春になると源平桃の花が咲き。
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秋には柚子の実が鈴なりに。
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家の裏は里山のなごりで樹木が茂り。

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