隠退牧師の徒然記<559>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<559>
2020年11月17日「手差し確認をしながら」


聖書の言葉
後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指して走ることです。(フィリピの手紙3章13-14節)


忘れ物をする。いつも幼稚園の勤務が終わり、帰宅の途中、最近のことであるが金沢八景駅と周辺が整備され、便利になり、駅ビルの中にスーパーが開店したので、買い物をして帰ることがある。いくつかの買い物の中にはパンもあった。ロールパンとか食パンである。レジで精算し、買い物は袋に詰めて帰ってきたのである。ところが買ったはずの食パンが見当たらない。よくよく考えて気が付いたのであるが、買った物を袋に入れるとき、食パンは少し大きいので、最後に処理するつもりで、袋詰めする台にある棚に置いたのだ。全部袋に入れたと思って帰ってきてしまったのであるが、棚に置いた食パンには気が付かなかったのである。家に帰って気が付いても、取りに行くこともできず、電話して保管してもらうには、食パンなのである。連れ合いには、買うのを忘れたと言っておいた。
忘れ物といえば、もうかなり以前のことであるが、大切な手帳を忘れたことがある。勤めの関係で、かなり遠方まで高速道で赴いたのである。パーキングエリアで公衆電話を利用する。その頃は携帯電話が普及していなかった時代である。手帳には相手の電話番号が書いてあり、電話を終えて帰路についたのであった。そして、帰宅して気が付く。手帳を忘れたこと、その手帳は高速道のパーキングエリアの公衆電話の上に置いた、と思い出すのであるが、だからといって取りに行くには遠距離だし、あきらめたのであった。しばらくは手帳に記されている予定表を思い出しながらの日々であった。
もう一つの忘れられない忘れ物事件は、背広を忘れたことである。2014年の10月から翌年の1月までスペイン・バルセロナに滞在していた。娘の羊子の知人がマドリッドにいるので、羊子の彼の運転でお訪ねしたのである。バルセロナマドリッドは600キロの距離である。車で6、7時間も要したと思う。高速道で行ったのであるが、途中、忘れ物をしたことに気づく。連れ合いや羊子は、その忘れ物は途中に寄ったレストランかと思ったようであるが、忘れ物は羊子の家であるので、まあ、ほっとしたのであった。マドリッドでは羊子の知人がマドリッド日本語で聖書を読む会を開いているので、そこで奨励をすることになっていた。そのためには衣服を整えて臨むことにしていたのである。だから出かける前には背広を用意してハンガーにかけておいたのである。それを忘れたのであった。普段着で奨励を行うことにしたが、マドリッドの知人が背広を貸してくれたのである。慣れない背広を着るのは気が引けるが、それでもありがたく拝借してお勤めを果したのであった。
今のところ、忘れ物をしても、どこに忘れ物をしたか、記憶をたどることができるので、まだそれほど知的後退が進行してはいないと思う。何もかも忘れてしまう前に、いつもメモを残しておき、電車の車掌さんのように、手差しの確認をしているのであるが…。

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バルセロナマドリッド間の高速道路の途中、風車がどこまでも続いていた。
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牛が見えるが、板の看板である。
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背広を拝借して集会でお話しをする。

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