隠退牧師の徒然記<554>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<554>
2020年10月13日「共に歩むために」


聖書の言葉
エスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
(マタイによる福音書26章26節)


キリスト教では10月の第一日曜日は「世界聖餐日」としている。「聖餐」は「聖なる食事」という意味であるが、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画で知られているように「最後の晩餐」である。イエス・キリストは十字架に架けられる前に、12人のお弟子さんたちと最後の夕食を行う。そして信仰の人生を励ます意味で、お弟子さんたちにパンを裂いては配り、「今後は『わたしの体』として食べなさい」と示したのである。今度はぶどう酒の盃を与え、「今後は『わたしの血』として飲みなさい」と示されたのである。イエス・キリストが十字架に架けられた後、お弟子さんたちは、最後の晩餐の意味を深く受け止め、信仰を養うために、常に「聖餐」をいただくようになったのである。その聖餐は今日もキリスト教の中心となっている。プロテスタントの教会は毎週の日曜日に聖餐式を行う教会もあるが、ほとんどは月に一度の聖餐式を執行する。カトリック教会の場合は毎週日曜日のミサで必ず執行されているのである。そして10月の第一日曜日は「世界聖餐日」として、どこの教会も聖餐式を執行している。
この聖餐式に与ることができるのは、イエス・キリストの十字架の救いを信じて洗礼を受けた者に限られている。日曜日の礼拝は、すべての人々に開かれているので、信者ではない人も出席するのである。その日に聖餐式が執行されるとき、聖餐式の意味を知らない人々も聖餐式に与る場合もある。それはそれでよろしいと思っている。しかし、聖餐式のご理解がない方のために、聖餐式執行の前に、聖餐式の意味を示す教会もある。その説明を聞けば、聖餐式に臨むことは辞退する。しかし、教会または牧師によっては、聖餐式はすべての人々に開かれているので、誰もが与ることができるとし、洗礼を受けていなくても、初めて教会に出席した人も聖餐を与えるのである。それが問題点となり、今でも議論されている。
カトリック教会では、多くの場合、生まれた子供には洗礼を授ける。幼児洗礼と言うものある。赤ちゃんの時に洗礼を受けているのであるから、成人して聖餐式に与れるかといえば、そうではないのである。カトリック教会は幼児洗礼を受けた子供は、およそ小学生上級または中学生になると「初聖体式」を受けることになる。画家のピカソが「初聖体」という名画を残しているが、妹の「初聖体式」を描いている。プロテスタント教会では「堅信礼式」としている。幼児洗礼は親の意思であるが、初聖体・堅信礼は本人の意思で信仰を告白することなのである。十字架の救いを信じて歩むこと、その信仰を導く聖餐式に臨むのである。
カトリック教会もプロテスタント教会もそれぞれの教会において聖餐式を執行している。その教会の牧師、神父さんが司るのであるが、プロテスタントの牧師であるのに、カトリック教会のミサで聖餐式を執行しためずらしい場合もある。

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横須賀上町教会における聖餐式。現役引退後も聖餐式を執行できるお恵みを喜んでいる。
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バルセロナカトリック教会で神父さんと共に聖餐式を行う。
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六浦谷間の集会における聖餐式。毎月執行するようにしている。

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