隠退牧師の徒然記<623>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<623>
2022年2月7日「ともにいただく喜び」

聖書の言葉
わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしはその者と食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録3章20節)


2月になると、思い出されるのは幼稚園の子どもたちとの会食である。卒業する子ども達を毎日5、6人ずつ園長室に招き、一緒にお弁当をいただくのである。いつもはクラスのお友達とお弁当を食べるのであるが、園長室でお弁当食べること、なんともお楽しみなのである。家に帰って、今日は園長先生とお弁当を食べたことをお母さんに話すのであるが、「それが分かっていればねえ」との声も聞こえてくる。分かっていれば、もっと見栄えの良いお弁当を作ったというのであろう。お友達のお弁当の評価なんてしてない。とにかく、卒業するお友達とお話をしながらお弁当をいただくのである。小学校への思いとか、幼稚園の生活で楽しかったことなどを話し合うのであった。このお友達との会食を始めたころ、一人一人にお招きのお手紙をあげていた。従って、お母さんたちは園長との会食を認識しながらお弁当を持たせるのである。印象としては、本当に工夫をこらしたお弁当でもあった。腕を振るったことが分かるのである。むしろ、いつもの通りのお弁当でよいのであり、そのためあらかじめ招待状は渡さないことにしたのである。その感想が、「わかっていればねえ」である。
お友達と食事を共にすることは楽しいものである。コロナの感染予防のため会食は自粛するように求められているが、最低限の人数で会食をするのである。私は幼稚園や教会という場の働きであり、会食ということは限られていた。しかし、社会においてはいろいろな関係で会食をしなければならないようである。スペインはバルセロナに滞在していた時、お友達との会食が実に多かった。娘の羊子はピアニストとして各地で演奏活動しているので、知人・友人が多い。そのような皆さんとの会食が多いのである。なかでも誕生会の食事が多いのである。お友達が多ければ、それだけ誕生会に呼ばれることになる。そして、自分の誕生会にはお友達をお招きすることになるのである。その他、何かのお祝いとか、そうでなくても一緒にと、食事をすることが多いのである。私達夫婦が滞在した時にも、娘の知人がお招き下さるので、私達もお相伴に与っていた。あるいは娘のコンサート後に会食をすることもある。そして、私たちが滞在していることで、わざわざお招き下さるのである。今はどこの国でも自粛が求められているが、それでも何かと会食をしているようである。バルセロナの皆さんと食事を共にしたとき、実にお話が弾むということである。自宅に皆さんをお招きした時にも、食事中はいろいろなお話をしているが、お帰りになる間際まで話しているのである。いよいよ食事が終わり、お帰りで立ち上がるのであるが、玄関付近でいつまでもお話が続いている。一人ひとり順番に長話が続いている。こちらは関係ないので、ベッドに横になっているのであるが。

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幼稚園の全園児の楽しい会食。
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園長とお友達が楽しくお弁当を食べる。
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皆さんをお招きしての食事。
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いろいろなお話をしながらの会食。
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