隠退牧師の徒然記<622>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<622>
2022年1月31日「飾り物が楽しくて」

聖書の言葉
あなたがたの目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(ガラテヤの信徒への手紙3章1節)

子ども達は「飾り物」が好きなのだ。いろいろなものを作っては飾っておく。壁にはったり、台であれば、テーブルであろうがピアノであろうが置けるところには作品の展示上にしてしまうのだ。スペイン・バルセロナ在住の孫が年末から一時帰国している。約二ヵ月であるが、日本の幼稚園を体験させたいと、近くの幼稚園に入園させていただく。幼稚園ではいろいろな作品を作り、持って帰るのである。家で過ごすうちにもいろいろな作品に明け暮れている。備え付けのセロテープも瞬く間になくなる。B版の用紙は使わなくなっているので提供しているのであるが、お絵かきやらで随分と使ってくれている。あちらこちらに飾られた孫の作品に目を細めながら見るのであるが。孫も自分の作品を日々喜びつつ鑑賞しているようだ。
幼稚園に在任している頃、いつも子どもたちの作品が飾られていた。お絵かきは本人の作品がそのまま飾られており、楽しく見ていたいものである。ある期間展示されていたものは、いずれお家に持って帰るのであるが、お家では何処に飾っているのかな。それこそ飾り物で賑やかなことであろう。ずっととっておきたいのであるが、年月とともに消えていくのである。しかし、いくつかは残しておきたいのである。時々、いろいろと整理していると我が家の子どもたちの作品があり、懐かしく鑑賞するのであった。
幼稚園の職務を担っていた頃、視力がないお友達・Sちゃんを卒園させたことがある。そのSちゃんが小学校に進み、お友達と共に藍染のテーブルセンターを作る。母上様が記念として送ってくださったのである。そのテーブルセンターはSちゃんが一人で作ったのではないが、関わって作ったのであり、Sちゃんの作品として幼稚園の玄関に、額に入れて飾って置いたのであった。その額は長く飾られていたが、Sちゃんの存在を誰も知らないので、今は外したのであった。Sちゃんはその後健やかな成長が導かれていることを、母上様から示されていたのである。作品は、一人の存在をそのまま示されるのである。
作品は、本人が作った物であり、だからいつまでも保存しておきたいのである。本人もその作品の出来栄えではなく、自分が作った物として、いつまでも身近に置いときたいのである。実は、私の身近には、私の中学生時代に作った作品が飾られている。丸太を削って作った船である。何日もかけて作ったと思う。その作品が70年も経ているのに、まだ飾られているのであった。今は何の感慨もないが、ある時は慰め、ある時は希望となり、ある時は勇気を与えていたのかもしれない。感慨もないと記したが、懐かしく思い出し、少年の頃の夢と希望を再現してもいるようだ。そんなことを示されながら、孫の作品は大事にしてあげたいと思っているのであるが。
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家のあちらこちらが孫の作品展示場であり。

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幼稚園子どもたちの作品が飾られて。
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Sちゃんの藍染テーブルセンター。
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中学生時代に作った船であるが。

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