隠退牧師の徒然記<697>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<697>
2023年7月10日「突発の応援牧師として」

聖書の言葉
わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
(テサロニケの信徒への手紙<一>1章2節)

2010年3月に30年間務めた大塚平安教会を退任する。しかし、4月から代務者として横浜本牧教会の講壇に立つ。そのお勤めは9月までで、10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師になる。しかし、所属しないが横須賀上町教会には月一度であるが2010年11月から2016年7月まで講壇のお勤めをする。そして、並行して2012年からは隔月であるが三崎教会の講壇に立たせていただいている。それは今でも続いているのである。その他は六浦谷間の集会として、自宅にて連れ合いのスミさんや家族と共に礼拝をささげているのである。このように礼拝に向かう歴史を顧みたのであるが、突発的に依頼されていくつかの教会に赴いている。
まず青山教会のお招きをいただいたとき、何よりの喜びであった。2013年11月3日の日曜日礼拝に招かれる。神学校を卒業し、最初の教会がこの青山教会であったのである。最初の三年間は補教師、伝道師として務める。その後の一年間は正教師、副牧師として務めたのであった。1970年の始めであるが、その頃、学園紛争が激しく、その波は教会にも及んでいたのである。そのため、正教師に合格し、本来なら教区総会で按手礼を受けることになるが、総会が開かれない。それで、いくつかの教会が合同で按手礼を行ったのである。会場は青山教会であり、他にも数人の按手礼希望者がおられたのであった。その意味で青山教会は伝道者になって最初の教会であると共に、牧師として認証された教会にもなったのである。在任四年間であり、主任の宮内彰牧師の指導をいただきながら務めたのであった。事務仕事が主であったが、伝道師、副牧師として月に一度の説教、教会学校のお勤め、青年会の交わり等の働きをするのであった。住居は芝白金にあり、明治学院のすぐ近くでもある。連れ合いのスミさんが明治学院に勤めていたので、この住居は便利でもあった。その頃、まだ都電も走っており、都電やバスで青山教会に通う。その住まいで長女の羊子、次女の星子が与えられて過ごしていたのである。その後、大田区六郷土手にある公団住宅に転居する。教会まで遠くなったが、多摩川の土手は程よい散歩道であり、子どもたちを連れては土手の散歩を楽しんだものである。
その昔懐かしい青山教会のお招きをいただいたのは、その教会の牧師によるものであると示されている。今の青山教会の牧師先生の父上様とは神奈川教区で共に働き人であった。その父上様は今でも現役として神奈川の地でお働きである。さらに今の青山教会の牧師先生は日本基督教団においても青年委員会として活躍されている。教団の書記でもあったので、しばしば教団の中でお会いしているのである。以前、青山教会に在任していたことでもあり、お招きくださったのである。当日は、バルセロナ在住の娘の羊子が一時帰国しており、礼拝が終わってからミニコンサートも開かせていただいたのであった。在任の頃、教会学校に出席していた方が、立派に成長されてご挨拶くださった。やはり、牧師としての出発点はこの青山教会であると示されたのである。

40年ぶりに青山教会の講壇に立つ。
礼拝後は羊子のミニリサイタル。羊子も3歳までこの教会に出席。

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