隠退牧師の徒然記<651>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<651>
2022年8月22日「あの頃のお勤めを示され」

聖書の言葉
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いなさい。
(エフェソの信徒への手紙5章19節)


久しぶりに大塚平安教会の礼拝で説教をすることになった。実は、娘の羊子が一時帰国するにあたり、大塚平安教会でピアノのリサイタルを開かせていただくことになったのであるが、日曜日でもあり、それなら父親の鈴木牧師に礼拝の説教をしてもらいたい、と言う運びになったという訳である。それに伴い、その礼拝では鈴木伸治牧師作詞、鈴木羊子作曲の賛美歌を歌うことにもなったのであった。何となく、後ろめたい気持ちもあったが、若い頃、この教会の牧師として作詞をしているので、40年を経て皆さんに讃美歌として歌われることになり、喜びが大きかった。
1979年9月に大塚平安教会に就任する。40歳であった。無我夢中でお勤めを担ったことについては前回も触れたが、牧師のお勤めはまず週報を発行すること、そして日曜日の説教をすることである。その週報にしても、もともと書くことは嫌いではなく、青年の頃からいつも書いていた。絵を描く人が、いつもスケッチブックを持ち歩き、おもむくままに写生をするように、私はメモ帳なるものを携えており、いつもその状況を書き残していたのである。文章修行のつもりでもあった。宮城県にある教会に赴任した時、初めて自分の企画で週報を発行することになる。東京の教会で副牧師の頃は、主任牧師の原稿をもらって定められた週報に掲載するだけの職務であった。今度は、自分で発行することになったとき、週報が単なる礼拝順序や報告のみではなく、いろいろな分野で書いておきたかったのである。報告にしても、単に集会記録ではなく、感想を含めて報告する。その他、「牧会報告」なるものもB5版一面に記していたのである。そのような経験があるので、大塚平安教会の週報もいろいろな紙面にしたかったのである。「牧会メモ」と称して教会の歩みを報告していたが、週報の表紙に詩を掲載することにしたのであった。
1981年1月11日、「生きる」と題して最初の詩を発表している。就任して1年半後である。以後、折にふれて週報に発表する。この度、8月7日の礼拝にて歌われた賛美歌「生きて愛して祈りつつ」は1981年4月5日に作詞している。また、「主の祝福」は1981年5月3日に作詞している。約半年にわたり週報に詩なるものを掲載していたのである。その詩を娘の羊子が掘り出すことになる。そして作曲してくれたのである。この賛美歌をサグラダ・ファミリアのミサで歌われることになった。2020年5月のことである。ところが、中心になって進めてくれていた方が天に召され、さらにコロナの関係で、せっかくの企画が中止になったのであった。皆さんに歌われること、結局、幻のことであろうと思っていたのであるが、詩が作られ、発表された場で、しかも礼拝で歌われることになり、感謝の思いであり、皆さんによって歌われたことを喜んでいるのである。

週報に詩を書いていた時代。
約半年は毎週書いていた。

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