隠退牧師の徒然記<714>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<714>
2023年11月6日「子どもの教会を担いながら ③」

聖書の言葉
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)


戦争の時代になっていること、まことに悲しいことである。戦争は相手との戦いであり、当然多くの死者が出る。それを承知で、戦争により自国の繁栄、安全を謀るのである。戦争は必ず多くの戦死者がある。貴い人命を犠牲にすること、子どもの頃から教えられなければならないのである。人間の存在を大切にすること、教育の一つの使命である。そのことがないがしろにされている結果が戦争ではないかと思っている。教会学校キリスト教の学校である。中心であるイエス・キリストの教えをいただくことが目的であるが、当然、人と人とが共に生きることを示されていくのである。キリストの教えは、「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」である。そのために、人間がその教えを生きるために、十字架への道を進み、人間の自己満足、他者排除を滅ぼされたのである。その教えを実践的に学んだのである。教会学校では毎年夏になると夏期学校を開催する。泊まり込みで集中的にキリストの教えを示されるのである。多くの場合、郊外に出かけ、自然と親しみながら過ごす。また楽しいことも行われる。それについては前回のブログで記している。キャンプファイヤー等でどこかの現地人の踊りを酋長を中心にして演ずる。楽しさが盛り上がるというもの。しかし、夏期学校はキリストの教えを集中的に学ぶことが目的である。ある年の夏期学校の主題を「平和を造り出す」とした。みんなで平和を考え、どのように平和を造り出すのか、学び、実践したのである。聖書はエフェソの信徒への手紙6章10節以下の示しである。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と示しつつ、次のように教えている。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を楯として取りなさい。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」と示されている。「神の武具を身に着けなさい」ということで、実践的に武具を作ったのである。「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の履物」、「救いの兜」、「霊の剣」を作ったのであった。実際に兜を作ったり、剣を作ったりすると、戦いの勉強なのかと指摘されることも。しかし。表面上はそのようであっても、内容は平和を造り出すものなのである。聖書は平和の基は主イエス・キリストであり、叫び続けているのである。聖書・エフェソの信徒への手紙は繰り返し、平和の原点を示している。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、平和の福音を告げ知らされました。」(2章14-17節)
こうして教会学校は平和の教育をしているのである。
noburahamu2.hatenadiary.org