隠退牧師の徒然記<662>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)時<662>
2022年11月7日「本来の勤めを果たしながら」

聖書の言葉
宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。(使徒言行録8章36節)

私が在任した教会と幼稚園の1979年からの30年間を振り返っているのであるが、功績をたたえているのではなく、自分史を書いているのでもない。自分の歩みを、改めて見つめているということである。これまでは1980年代の建築とか作りものを見つめたが、本来の取り組み、即ち牧師とか園長としての働きを見ておきたい。
牧師としては、世の人々がキリストの十字架により、生きる希望を持ってもらいたいということである。だから牧師の働きは聖書の示しをいただき、十字架の福音を告げ知らせることなのである。そのために「牧会」の勤めを果たすのである。牧会とは教会に集まる皆さんにイエス・キリストの十字架による救い、それを福音と称しているが、共に救いを喜びたいのである。そのような勤めをしているうちにも、十字架による救いを信じて洗礼を受けること、牧師の使命なのである。ところが、私自身の何の働きもないのに洗礼を申し出られる方がおられたのであった。1979年9月に教会に赴任する。年度の途中でもあるが、前任の牧師が6月で退任したので、あまり牧師の不在期間を長くしたくないとの教会の希望でもある。8月末には宮城県にある教会を後にして転居したのであった。そして9月の第一日曜日が就任後初めての礼拝であった。緊張して礼拝に臨んだのであろう。そして礼拝が終わり、牧師はお帰りになる皆さんを玄関で挨拶しつつお送りするのである。その時、一人の婦人が、洗礼を申し出られたのである。最初の礼拝で、初めてお会いする方から受洗を申し出られ、まさに驚いた次第である。同婦人には、申し出を受け止めるのは、役員会であり、協議して連絡することにしたのである。そして、役員会でも驚いたようであるが、まだ牧師を迎えたばかりなので、クリスマスのまでお待ちいただき、お祝いのクリスマス礼拝で洗礼式を執行することにしたのである。はからずも教会への就任が洗礼から始まったこと、30年間の勤めを象徴するかのようであった。
1979年は9月からであるが12月には1人の洗礼者、1980年には3人、81年は4人、82年は9人、83年は3人、84年はなし、85年は5人、86年は4人、87年は7人、88年はなし、89年は2人、90年は3人、91年はなし、92年は1人、93年は4人、94年は1人、95年はなし、96年はなし、97年は3人、98年は2人、99年はなし、2000年はなし、01年は2人、02年は5人、03年はなし、04年は1人、05年は2人、06年は4人、07年は1人、08年は2人、09年は5人、2010年は2人の皆さんが洗礼を受けられた。30年間6ヶ月で76人である。
洗礼を受けられた皆さんは教会員として、すでに会員である皆さんと共に信仰の歩みをするのである。教会は牧師だけがイエス様の十字架の福音を示しているのではない。教会員の皆さんが自分の信仰を証ししつつ歩んでいるのである。従って、それらの教会の皆さんの人生を示されて洗礼を受けられる方もおられるのである。教会の皆さんの証しを示されたいのである。教会の皆さんのお交わりが洗礼へと導かれる大きな要因である。

クリスマス礼拝。もはや幻の風景になっているが。

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