隠退牧師の徒然記<564>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<564>
2020年12月21日「クリスマスのお恵みをいただき」


聖書の言葉
見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
(マタイによる福音書1章23節)


クリスマスは25日であるが、キリスト教の教会では12月20日が日曜日なので、多くの場合、20日にクリスマス礼拝及び祝会を開くであろう。しかし、今年は新型コロナウィルス感染予防のため、集会を自粛しているので、クリスマス礼拝は簡単に行い、祝会は中止とするところもある。この困難な社会だからこそ、救い主のイエス・キリストの到来を待望していたのである。教会では皆さんと共にお祝いすることができないにしても、やはりクリスマスは救い主の到来ということで、個人の生活の中で喜びを与えられるのである。待降節の期間に示されたように、今まで馬小屋の飼葉桶は空っぽであったが、クリスマスを迎えるとき、そこにはイエス様が存在するのである。それは25日のことである。したがって、教会は20日にクリスマス礼拝をささげても、まだイエス様は飼葉桶には存在しないのである。その意味でも、25日に礼拝をささげる教会がある。しかし、日本の場合、25日はお休みではないので、25日のクリスマス礼拝には出席できないのである。
スペインはキリスト教カトリックの国であるので、25日はお休みである。だから25日は教会に集まりクリスマスのミサをささげるのである。そのクリスマス・ミサについては特別な思い出を持っている。2014年10月ころから三ヶ月間バルセロナに滞在している。娘の羊子はカトリックの神父さん達とも交流があり、知り合いのホセ・ルイス神父さんの教会のクリスマス・ミサの奏楽を担当することになった。当然、私たち夫婦も一緒にミサに出席したのである。ルイス神父さんは私達の存在を歓迎してくれたのであるが、突然のことであるが、私も一緒にミサを担当してもらいたいとの申し出を受ける。プロテスタント教会の牧師がカトリック教会のミサを司る、前代未聞のことである。申し出をいただいたとき、最初は戸惑い、辞退のつもりでいたが、同じキリスト教なのであり、カトリック教会の神父さんと共にプロテスタントの牧師が一緒にミサを司る、それもよろしいではないか、との結論に達し、お受けしたのであった。早速、神父さんのガウンを拝借し、ルイス神父さんと共にクリスマス・ミサを司ったのである。
ミサでは奨励を担当することになり、日本語で奨励を行い、その日のミサで奏楽を担当していた娘の羊子がスペイン語に訳してくれたのである。聖餐式もルイス神父さんと共に執り行う。ミサが終わると、会衆の皆さんは神父さんが抱いているイエス様の人形の足にキスをして、喜びつつ帰えられるのであった。まさに25日はイエス様が到来したという、大きな喜びをもって教会に集い、人形であるにしても、喜びのキスをして帰るのであった。大切な信仰であると思っている。この信仰が困難を克服していくのである。

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バルセロナの広場に巨大なクリスマス・ツリーが飾られている。
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12月25日になると教会の中にも、飼葉桶にはイエス様が。
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25日のミサには赤ちゃんイエス様が置かれている。
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ミサを共に司る。通訳は奏楽を担当している娘の羊子が。

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隠退牧師の徒然記<563>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<563>
2020年12月15日「クリスマス物語を示されながら」


聖書の言葉
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書2章6-7節)


今年もクリスマスの時期となっているが、10日もすれば25日となり、イエス・キリストの出現のお祝いとなる。出現した日とは言わない。現れたことを喜び、25日に喜びの礼拝をするのである。クリスマスといえば12月25日であり、イエス・キリストが生まれた日と思われているが、25日は誕生日ではないのである。実際、西暦はキリスト歴と言われているように、イエス・クリストが出現した日をもって始まるのが西暦であり、そのように示されれば25日が誕生した日となるが、2000年前の記録は明確ではないということである。しかし、そのころに誕生したことは確かであり、救い主の出現であり、喜びつつ礼拝をささげる日を25日としたのである。ChristmasはChrist(キリスト)をmas(礼拝)する日としたのである。一般にはイエス・キリストの誕生日と理解されているが、まあ、それはそれでも良いと思っている。クリスマスということで、喜びあうことは結構なことなのでもある。しかし、クリスマスなのであるからイエス様の存在を示されながら喜びたいたいのである。
今はクリスマスを待つ日であり、キリスト教では待降節としている。「降」としているが、神様から与えられる救い主が「降る」という意味なのであり、その救いを待つ時となっているのである。イエス・キリストは救い主としてこの世にあらわれたのであり、その喜びを示すのが25日のクリスマスということである。今はクリスマスの飾りも賑やかに、待降節を過ごしているのである。最近はクリスマス飾りの賑やかな街を歩くこともないが、家にいるだけでも賑やかな状況が示されるのである。クリスマスツリー、イルミネーション、いろいろな飾り等を見るが、日本においては、クリスマス物語はあまり飾られていないようである。すなわち、クリスマスマの中心は馬小屋であり、その中心に置かれている飼葉桶、そして飼葉桶に寝かされている赤ちゃんイエス様、飼葉桶の両脇にはマリアさんとヨセフさん、そしてお告げを受けて駆け付けた博士さん達と羊飼いさん達、そして馬や牛、羊の動物達がイエス様を見つめている状況の絵や置物で飾られている。バルセロナ待降節の時期に滞在したことがあるが、クリスマス前には露天商が立ち並び、馬小屋物語の人形、グッズが並べられているのである。そして、教会にも商店にも馬小屋の飼葉桶が飾られている。しかし、飼葉桶には救い主のイエス様いないのである。まだクリスマスではないからである。そして、25日になると飼葉桶にはイエス様が存在する。人々の喜びとなるのである。飼葉桶は動物たちのお茶碗である。その茶碗に神様のイエス様、救いの源が存在する。神様のお言葉をいただくことで養われる人間として示されるのである。飼葉桶は私たちの心でもある。私たちの心に救い主が存在することを喜ぶことがクリスマスということなのである。

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バルセロナの通りに飾られているアドベント・イルミネーション。
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クリスマス前には露店商が並び、クリスマスグッズが並べられている。
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町中に飾られている飼葉桶物語。等身大のマリアさんとヨセフさん。飼葉桶にはイエス様は、まだ存在しない。

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隠退牧師の徒然記<562>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<562>
2020年12月8日「光り輝く季節となり」


聖書の言葉
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
ルカによる福音書2章10-11節)


今年もクリスマスの時期となっている。しかし、今年は例年のような華やかな飾りつけは見かけないようである。やはりコロナウィルス感染予防のため、人との接触を避けるためであろう。商店でありながら、お客さんはあまり来なくても良いですよ、というわけでもないと思うが。それでもクリスマスのイルミネーションが賑やかになっていることは確かである。もっとも、最近は、イルミネーションはクリスマスに限らず、町の賑わいのために設置されているようである。特に年末ということ、また冬を飾るものとしてのイルミネーションとの意味合いが強いようである。イルミネーションは確かにきれいだと思う。たくさんの電飾は、人間は光や明るさを求めているので、イルミネーションの輝きは心を喜ばせるのであろう。しかし、その輝きが度を超すこともある。電飾をたくさんつけることだけでも心を踊ろされるのであるが、あまりいろいろな色合いがあると、心を閉ざしてしまうのだ。地域や町の輝きでもあるが、住宅街でも個人の家で華やかにイルミネーション飾りをつけている。。
イルミネーションの輝きは日本ばかりではなく、世界のいたるところで飾られているようである。飾られているイルミネーションでも、心に残る電飾を示されている。スペイン・バルセロナに何度か滞在したが、2014年には10月から翌年の1月まで滞在している。その期間は年末年始であり、クリスマスの過ごし方を経験したのであった。11月の中旬あたりから、街の通りで、何かと工事をしているのを見かけていた。そして、11月の末から待降節が始まったとき、夜の町はきれいなイルミネーションの輝きを見るのである。スペインはキリスト教カトリックの国であり、キリスト教の暦に合わせてクリスマスの準備が始まるのである。11月の終わりから待降節アドベントという暦になる。クリスマスの四週間前から始まるのであり、この時からクリスマスの季節になるのである。その前は、クリスマス飾りは行わないということである。待降節になったと同時に、街中がクリスマス飾りとなる。もっとも日本のように、商店の中に華やかにクリスマス飾りをつけることはない。ツリー等も飾らない。むしろイルミネーションやクリスマスツリーは街が飾りつけるのである。それぞれの街の通りは、いろいろなイルミネーションが付けられる。それぞれの街の通りがイルミネーションを競っているようである。しかし、イルミネーションは華やかなものではなく、静かにクリスマスを待望している、という感じである。
クリスマスとは、暗い世の中にイエス・キリストが現れて、人々に光の喜びを与えたのであった。今年は新型コロナウィルス感染予防のため、心を暗くして歩んでいるのであるが、いよいよ光りが到来したのである。喜びつつ歩みたいと示されている。

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バルセロナでは、クリスマスが近づくと、街の通りにイルミネーションが。
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それぞれの街の通りが、競うようにイルミネーションを飾る。
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イタリアのフィレンツェでも、夜の通りはイルミネーションが。

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隠退牧師の徒然記<561>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<561>
2020年11月29日「振り返るときを与えられ」

聖書の言葉
キリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。(フィレモンへの手紙6節)


11月も終わりになっており、もはや12月の歩みとなる。年末になったとの思いが深まってくるのであるが、おのずと一年間の歩みがよみがえってくるのである。いうまでもなく、今年はコロナウィルスに悩まされ、新しい年へも引き継がれることでもある。感染予防に明け暮れた年である。しかし、コロナばかりの歩みではなく、いろいろな人との出会い、関係を持ちつつ歩んでいることは例年と変わりない。この時期になると知人の皆さんから喪中のご挨拶をいただくようになる。その中にA子さんの喪中のご挨拶をいただいている。A先生のお連れ合いである。そのA牧師は今年の2月3日に79歳で召天されている。先生のご召天を知るのは夏も近くになっていた頃だと思う。後で知ることになり、驚くと共にお交わりをいただき感謝しているのである。
もっともA先生とお交わりをしたのは、かれこれ40年も昔になるのである。私がまだ40歳台であったが、その頃、日本基督教団は牧会者共同研修会を開催していた。その研修会に参加した時、A先生も参加され、一週間、寝食を共にして過ごしたのである。お交わりはこの時だけであり、その後はお会いすることがないのであるが、不思議なご縁で、結びつくのである。2013年3月より日本基督教団世界宣教委員会より推薦されてマレーシアのクアラルンプール日本人教会のボランティア牧師に赴くことになる。この教会は2012年3月までは専任の牧師がおられたが退任される。その後の牧師が決まらないので、日本基督教団に協力を求めたのである。それで、日本基督教団は隠退牧師を派遣することにしたのである。それもパスポート期限の三ヶ月間であり、順次隠退牧師が派遣されることになる。私は五番目に赴くことになったのであるが、最初に派遣されたのがA先生であったのである。だからお会いすることもないのであるが、昔のお交わりが基となっているが、新しいお交わりが導かれることになる。私たちがボランティア牧師として務めていた時、娘の羊子のチャペルコンサートを開かせていただくことになる。そのとき、A先生が娘のことをマレーシアの教会の皆さんに紹介してくださったのである。お会いしているのではないが、私の娘がピアノの演奏活動をていることをご存知であり、紹介文をお送りくださったのであった。その後、娘の羊子が日本で、関西でもコンサートを開いたとき、ご夫婦で会場へお出かけくださったのである。従って、牧会者共同研修会以来、A先生とはお会いしてないが、むしろ娘の羊子が、関西では二度ほどコンサートを開催しているので、その都度、おいで下さり、お交わりをいただいていたのである。
A先生のお連れ合い様より喪中のご挨拶をいただいたとき、前後してマレーシアの教会でボランティア牧師として過ごしたことを示され、しばし、思いを馳せたのであった。

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マレーシア・クアラルンプールにあるキリスト教日本語集会。
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マレーシア滞在中、この高いマンションの一室で過ごしていた。

隠退牧師の徒然記<560>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<560>
2020年11月23日「柚子の季節を楽しみつつ」


聖書の言葉
木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイによる福音書12章33節)


庭の一角に柚子の木があり、今年も柚子の実が鈴なりに実っている。毎年、この時期になると柚子がたくさん取れるので楽しみとしている。しかし、かなり色づいているようであるが、まだ早いようだ。もうすこしで収穫というところである。収穫した柚子は多量なので、子どもたちも結構持っていくが、近所の皆さんにも差し上げている。柚子なので、そんなに利用しないのであるが、お料理につゆをしぼって食べるとか、皮をジャムにするとか、お風呂に入れるとか、結構喜びとなる。もう数年も前になるが、今ほど柚子の実ができない頃、いくつかの柚子の実を楽しく鑑賞していた。ところが次第になくなるのである。リスが来てはもっていってしまうのだ。我が家の裏は小高い里山のなごりがあり、結構樹木が生えている。そのどこかに住んでいるのであろう。そのリスが電線渡りをするので、上を見上げることしばしばである。その頃の柚子はあまり実がならなかったので、なくなることがわかるのである。しかし、最近は鈴なりの柚子であり、リスがいくつ持っていこうとわからないのである。柚子の鈴なりの収穫に人間が喜び、リスも喜んでいる。平和な時代というべきか。
もうずっと昔のことであるが、庭にはかなり太い梅の木があった。その梅の木からたくさんの梅の実が取れたのである。父も母も亡くなり、家だけが存在していたのであるが、梅の木が鈴木家の存在を証明していたようであった。収穫の時期になり、たくさんの梅の実を収穫し、ご近所にも差し上げたものである。もっとも梅の実を差し上げても、飲み物漬けにするか梅干しにするかくらいなので、何もしないこともある。無人の鈴木家であったが、その頃も源平桃の花が咲いており、桑の花が咲いたものである。無人の家であったが、いくつかの花が存在を証明していたのであった。家の建て替えによって梅の木も桑の木も整理してしまったが、源平桃は残ったのである。そして、柚子の木は新しく家を建て直したとき、庭も新しくしたので、そのときに植えたのであった。
春の源平桃の花、秋の柚子の実、季節の移ろいを楽しみにしている。昨年は品種がわからないミカンの実がいくつか取れたが、今年もいくつかの実をつけている。昨年もいくつも取れなかったが、今年も数えるほどである。食べることより、庭をいろどる存在として楽しみにしているのである。柿の木も楽しみなのであるが、柿の木の葉はかなり大きいので、落葉の頃は結構大変なのである。だから柿の木は育てないことにしている。ひと時はぶどうの木を植えたのであるが、管理が悪く、育たなかった。もう一度挑戦するつもりであるが。今でも源平桃や柚子の木の落葉の頃は、処理が大変なのである。でも、少しは運動になるので落ち葉拾いも喜びとしている。間もなく職務が終わるので、その後は庭を相手に過ごそうかと思っている。そろそろ柚子湯に入ろうかと思っているのであるが。

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春になると源平桃の花が咲き。
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秋には柚子の実が鈴なりに。
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家の裏は里山のなごりで樹木が茂り。

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隠退牧師の徒然記<559>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<559>
2020年11月17日「手差し確認をしながら」


聖書の言葉
後ろのものを忘れ、前のものに全身を傾けつつ、神がキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指して走ることです。(フィリピの手紙3章13-14節)


忘れ物をする。いつも幼稚園の勤務が終わり、帰宅の途中、最近のことであるが金沢八景駅と周辺が整備され、便利になり、駅ビルの中にスーパーが開店したので、買い物をして帰ることがある。いくつかの買い物の中にはパンもあった。ロールパンとか食パンである。レジで精算し、買い物は袋に詰めて帰ってきたのである。ところが買ったはずの食パンが見当たらない。よくよく考えて気が付いたのであるが、買った物を袋に入れるとき、食パンは少し大きいので、最後に処理するつもりで、袋詰めする台にある棚に置いたのだ。全部袋に入れたと思って帰ってきてしまったのであるが、棚に置いた食パンには気が付かなかったのである。家に帰って気が付いても、取りに行くこともできず、電話して保管してもらうには、食パンなのである。連れ合いには、買うのを忘れたと言っておいた。
忘れ物といえば、もうかなり以前のことであるが、大切な手帳を忘れたことがある。勤めの関係で、かなり遠方まで高速道で赴いたのである。パーキングエリアで公衆電話を利用する。その頃は携帯電話が普及していなかった時代である。手帳には相手の電話番号が書いてあり、電話を終えて帰路についたのであった。そして、帰宅して気が付く。手帳を忘れたこと、その手帳は高速道のパーキングエリアの公衆電話の上に置いた、と思い出すのであるが、だからといって取りに行くには遠距離だし、あきらめたのであった。しばらくは手帳に記されている予定表を思い出しながらの日々であった。
もう一つの忘れられない忘れ物事件は、背広を忘れたことである。2014年の10月から翌年の1月までスペイン・バルセロナに滞在していた。娘の羊子の知人がマドリッドにいるので、羊子の彼の運転でお訪ねしたのである。バルセロナマドリッドは600キロの距離である。車で6、7時間も要したと思う。高速道で行ったのであるが、途中、忘れ物をしたことに気づく。連れ合いや羊子は、その忘れ物は途中に寄ったレストランかと思ったようであるが、忘れ物は羊子の家であるので、まあ、ほっとしたのであった。マドリッドでは羊子の知人がマドリッド日本語で聖書を読む会を開いているので、そこで奨励をすることになっていた。そのためには衣服を整えて臨むことにしていたのである。だから出かける前には背広を用意してハンガーにかけておいたのである。それを忘れたのであった。普段着で奨励を行うことにしたが、マドリッドの知人が背広を貸してくれたのである。慣れない背広を着るのは気が引けるが、それでもありがたく拝借してお勤めを果したのであった。
今のところ、忘れ物をしても、どこに忘れ物をしたか、記憶をたどることができるので、まだそれほど知的後退が進行してはいないと思う。何もかも忘れてしまう前に、いつもメモを残しておき、電車の車掌さんのように、手差しの確認をしているのであるが…。

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バルセロナマドリッド間の高速道路の途中、風車がどこまでも続いていた。
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牛が見えるが、板の看板である。
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背広を拝借して集会でお話しをする。

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隠退牧師の徒然記<558>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<558>
2020年11月10日「後になってお導きを知り」


聖書の言葉
主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴ない、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。(詩編23編2-3節)


11月ともなれば、やはり寒さが加わってくる。もはやコートを着て出かけるようになっている。朝の5時40分頃は、随分と暗くなっているが、まだ薄暗いという感じである。次第に夜の明けるのが遅くなってくる。12月ともなれば真暗な道を歩くことになる。それも12月の冬至までで、それからは次第に明るくなっていくことで、希望のような思いを持ちつつ夜道を歩くのである。春分の日の頃は明るい朝の道を歩くのであろう。しかし、その頃はお勤めが終わることになる。伊勢原幼稚園の園長を務めるようになって3年目を歩んでいる。最初に引き受けたとき、横浜の早苗幼稚園の園長を務めていた時であったが、3月に退任することになっていたので、4月からのお勤めを簡単に引き受けてしまったようである。片道2時間も要することは気にもしなかった。長い道のりで、出身の清水ヶ丘教会を電車の車窓に眺め、横浜駅の乗り換えを楽しみ、長らく使用していた相鉄線を利用することに喜び、かしわ台駅さがみ野駅の周辺を車窓に見ながら海老名駅に着く。今度は小田急線に乗るのであるが、海老名駅の駅前、小田急線の本厚木駅の周辺等は懐かしい思い出が詰まっているのである。そして大山や丹沢山塊を車窓に見ているうちにも伊勢原駅に着くのであった。往復4時間も要して努めているので、皆さんは苦労をねぎらってくれるのであるが、本人は結構喜んで勤めていたということである。
ところで一つの勤めを引き受けたとき、そのときの思いや決心なるものがあるが、後でつらつら考えてみると、その場の状況というより、ずっと以前より、神様のお導きがあることを示されるのである。その前に大塚平安教会への導きを示されておこう。大塚平安教会には30年も牧師であり、幼稚園の園長であったが、ずっと以前より神様のお導きがあったことを示されている。清水ヶ丘教会に出席するようになるのは中学生になってからである。その頃、時々であるが大塚平安教会の名を聞いていた。礼拝が終わると、大塚平安教会が紹介され、お祈りと献金が依頼されていたのである。その頃の大塚平安教会は、成長段階の教会で、神奈川教区の祈りの課題でもあったようである。中学生の頃に示された教会であるが、40歳にしてその教会の牧師へと招かれたのであるから、神様の長いお導きを示されるのである。そして伊勢原幼稚園の園長にしても、久しく前より示されていたのであった。陸前古川教会に赴任したのであるが、前任の後藤金次郎牧師は40年間も務めたのであるが、退任後は伊勢原に転居したのである。そして伊勢原教会に出席され、何かと教会のお手伝いをされていたのであった。従って、以前から伊勢原教会、そして幼稚園を示されていたのである。神奈川教区の議長になり、伊勢原教会牧師就任式を務めたり、創立記念日には祝辞を述べたり、いろいろとお導きがあったことも示されるのである。いずれも後になって神様のお導きを知るので、今の状況にしても、今に至る神様のお導きを示されるのである。どのような状況であるにしろ、この状況は神様のお導きであると…。

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1980年頃の大塚平安教会
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伊勢原教会、この後ろに幼稚園がある。

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