隠退牧師の徒然記<713>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<713>
2023年10月30日「子どもの教会を担いながら ②」

聖書の言葉
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)


今でも思い出しては笑ってしまうのであるが、教会学校等で子ども達と接している頃、楽しい特技を披露していた。どこかの国の現地人の踊りである。夏期学校のキャンプファイヤーや全体の親睦会で、みんなでこの踊りをするとき、盛り上がりとなり、楽しい集いの思い出となるのである。この踊りを覚えたのは神学生の頃、ボーイスカウトの指導者講習会に参加する。牧師になり、教会に勤めながらも、子ども達の指導のためにも必要であろうと参加したのであった。昔はボーイスカウト活動が結構盛んであった。その講習会で、どこかの国の酋長を中心とした踊りを教えられたのである。神学生の頃、早速実演してみる。神学校の全体修養会があり、交わりの集いの司会を担当することになり、この踊りを実演してみる。どこかの国の宗教的な踊りでもあるが、交わりの一貫でもあるので、みんなで踊ったのであった。当時の校長先生までこの交わりに参加され、一緒に踊ったことは、励みになったようでもある。やがて神学校を卒業して教会のお勤めをするようになり、それぞれの教会で、全体の交わりの時には、いつもこの踊りを披露することで集いの盛り上がりとなったのであった。東北の宮城県の教会に勤めていた頃、東北教区の教育委員会委員に選任され、教区の中学生修養会を企画する。会場はYMCA関係の施設であった。その会場で、夜は親睦会であり、交わりの司会を担当する。その時もこの踊りを披露し、みんなで楽しく踊ったのであった。会場のYMCAのスタッフが、この楽しい交わりを見学されて、「やりますね」と評価してくれたものである。このように踊りの場を重ねるうちにも、自分なりに踊りに変化を与え、さらに楽しい踊りとなっていったのである。そして神奈川県の教会に赴任した時、その頃はまだ40歳そこそこでもあり、若気の至りも加わって、キャンファイヤーでは必ずみんなで踊るようになったのであった。教会学校の女性の先生が、酋長の娘と称して共に踊りを盛り上げてくれる。恥も外聞もなく、酋長は体にいろいろと入れ墨ならぬものが書き込まれ、先生たちが面白がって書くのであるが、盛り上がりが増してくる。50歳になっても酋長を続けていたのか、そのあたりは定かではない。若い時はなんでも挑戦していたのである。教会学校の思い出であるから、もっと牧師なりの勤めとしての思い出があるだろう。そのあたりを書き残さないと、何のための教会学校の先生があるかわからない。それらは順次書いておくことにして、やはり、忘れられないことなどを書いておいたのである。上半身裸になって、両手を天に向けながら叫び、踊っていたこと、懐かしい思い出である。

(その当時の写真を探したが、探すのが困難なので、今回は写真はない。)

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<712>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<712>
2023年10月23日「子どもの教会を担いながら」

聖書の言葉
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)

前回、教会学校から出発した私の人生を書き始めている。そのため、しばらくは教会学校の関りを記しておこう。昔は日曜学校と称したが、日曜日まで学校との印象であり、一般の学校とは区別する意味で「教会学校」と称するようになった。しかし、それでも「学校」と称しているので、学校ではなく教会である意味合いを強くする。「子どもの教会」と称している教会が多くなっている。名称が異なっても、やはり中身は「教育」なのである。子どもの教会はキリスト教の教育なのである、それは単に教育ではなく、信仰が原点となるのである。教会学校の指導者は、やはり「先生」なのである。子ども達にキリスト教について教えるのであるが、なかなかその務めを担う人が少ない。どちらかというと、洗礼を受けると先生になることを求められるのである。私が洗礼を受けたのは高校三年生の秋である。そして、年があけて4月からは新しい年度になるのであるが、教会学校の建て直しをはかるとき、近々洗礼を受けた青年がいるということで、高校を卒業したばかりの青年に白羽の矢が向けられるのである。洗礼を受けてもキリスト教については知識もないのであるが、教会生活はしているので、それなりに勤めを果たそうとするのであった。もっとも、必ず数年も担っている方が主任として指導するのである。むしろ、先生であるが、見習いとして担うことになる。教会学校の先生になる、これからの人生がいつも教会学校であり、神学校に入れば奉仕教会で教会学校教師として求められるのである。神学生時代は川崎にある教会で二年、その後は荻窪にある教会で三年間、教会学校の教師を担いながら出席していたのである。
神学生として荻窪にある教会に出席するようになる。そこの教会の牧師が、神学校の教授であり、学びのためにも奉仕教会に定めたのであった。川崎の教会の勤めを終え、しばらくは所属教会を定めないことにした。毎週、どこかの教会に出席するようになったのである。いろいろな教会を知るためでもある。従って、その頃は教会学校の先生から解放されることになり、朝早くから教会に行かなくても良いのである。そのような宙ぶらりんの姿が、教授に見つかり、教会が定まっていないなら、という訳で、その教授の教会を奉仕教会としたのである。教授の教会は、教会としての建物ではなく、民家の一間で礼拝がささげられていた。昔は、応接間が別棟のような佇まいの場合がある。応接間を出ると芝生の庭であり、そこは子ども達との遊び場でもある。教会学校は庭で遊びながら過ごすことが多かったのである。そして、その後は礼拝である。礼拝は応接間でもあるので、ソファーに座る。いつの間にか寝ているのである。そのように過ごしたので、教会学校の先生を厭わないで楽しく過ごしたのであった。

教会学校の先生になる。高校を卒業したころ。

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<711>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<711>
2023年10月16日「子どもたちの教会があるので」

聖書の言葉
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)

10月も半ばになったが、10月は意義ある日が続き、原稿用紙が何枚あっても足りないくらいである。まず、10月の第一日曜日は世界聖餐日である。この大切な日に洗礼を受けている。高校三年生の時である。このことについては何かと記しているので、ここでは割愛しておく。そして、第二日曜日は神学校日、伝道献身者奨励日である。この日についても、伝道者になる決心、神学校入学に至る道程なども何かと記している。10月の第三日曜日は信徒伝道週間である。それと共に教育週間でもある。キリスト教における教育ということで、キリスト教主義の幼稚園を示されるのであるが、何よりも教会学校の存在である。当初は「日曜学校」と称していたが、教会の学校であるので名称を変えたのであった。しかし、今は、「学校」ということで問題を感じるので、「子どもの教会」と称している場合がある。大塚平安教会もそのように変更している。しかし、ここでは「教会学校」との名称で筆を進めたい。自分自身、教会学校に出席することによって、今の自分がある。小学校三年生の時からである。このことについても、何かと記しているので割愛しておく。いろいろな思い出があるが、一つだけ忘れられないことがあり、このことは何回でも書き留めておきたい。出席している教会学校関東学院教会であるが、多くの出席生徒は関東学院の生徒なのである。秋になるとこちらの学校も日曜日に運動会が開催される。教会学校に出席すると、少ない人数であった。その日は関東学院の運動会であったからである。それでも教会学校はいつものようにおこなわれる。礼拝が終わると分級が行われる。その部屋に行くと誰もいない、このクラスは私以外は、みんな関東学院の生徒なのである。分級の先生は大学生のようである。学生服を着ていたように思える。大学生の先生は、一人きりの生徒であるので、何か質問はないかと尋ねる。首を振ったと思うが、先生は他に生徒がいないのでお祈りして終わりにしたのである。そのお祈りが今でも忘れられないのである。大学生の先生は、お祈りの中で私の名前を言いながら、神様にお祈りしてくれたのである。そのお祈りについては覚えてはいないが、私のためにお祈りしてくれたことだけは、いつまでも忘れられないのである。今日まで、いろいろな経験、出会い、積みかさねを経ているが、やはり原点は「お祈り」であると思っている。教会学校の大学生の先生が、たった一人の出席者、私のためにお祈りしてくれたということ、今に至る私の歩みを支えてくれているような気がするのである。「お祈り」をささげるということは、力を与える意味にもなる。今はあまり手紙なるものが使われなくなっているが、手紙の最後には、「ご多幸をお祈りしています」、「ご健康をお祈りしています」等と結ぶものである。存在をお祈りするということは、人間関係の大きな原点なのである。教会学校に出席するようになり、今の自分へと導かれているのであるが、教会学校は大切な「お祈り」を示してくれたと示されている。教会学校から出発した私の人生であるが、牧師という職務を担うことの終わりまで、いつも教会学校の存在があった。その教会学校についていくつかの思い出を記しておくことにしたい。

教会学校時代。ハイキングに参加、黒い服を着ている。

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<710>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<710>
2023年10月9日「子どもたちと共に歩みながら③」

聖書の言葉
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」
(マルコによる福音書10章15節)

幼稚園に関わる取り組みについては、二回にわたり記している。一つは、ドレーパー記念幼稚園の玄関ホールに掲げた「天国の特別な子どもたち」という詩についてである。もう一つは、牧師、園長、理事長の職務を一人で担うのではなく、やはり分担する必要があるということで、それらの兼任を解消したことである。管理上のことを記したのであり、幼稚園の子どもたちとの関りについては記していない。子どもたちとのかかわりについては、いろいろと記すには枚挙にいとまがない。それでも、いくつかの思い出を記しておくことにする。神学校を卒業して最初の教会に赴任した時、幼稚園を併設する教会であったが、主任牧師夫妻が担っており、副牧師としては全く関わらなかった。そして、四年後に宮城県の教会に赴任することになったとき、幼稚園を併設しており、退任する牧師は40年間も牧師と園長を担ってきたのである。当然、その教会に赴任するのであるから、幼稚園の園長も担うと思っていたのである。ところが、園長は教会員が担うということを示され、なんか気が抜けたようで、しばらくは就任の承諾については連絡しなかった。しかし、副牧師を4年も担っているので、早く異動したいとの思いがあり、その体制を受け入れたのであった。しかし、園長は担わなかったが、教会の幼稚園であり、幼稚園の牧師ということになる。毎週一度は合同礼拝があり、子どもたちには聖書のお話をすることになる。従って、園長には就任しなかったのであるが、この時点から子どもたちに「かみさまのみこころ」をお話するようになったのである。宮城の教会で6年、神奈川県に移り、ドレーパー記念幼稚園で30年、横浜本牧教会の早苗幼稚園で2年、伊勢原幼稚園で3年、幼稚園の子どもたちに「かみさまのみこころ」を取り次いできたのである。また、子どもたちとの触れ合いも喜びの時であった。宮城県の幼稚園では園長ではないので、子どもたちからは「牧師先生」と呼ばれていた。その後、神奈川県にあるそれぞれの幼稚園では、当然のことであるが「園長先生」と呼ばれることになる。その頃は40歳頃であり、子どもたちの父親くらいに見えたのかもしれない。「園長パパ」と呼ばれるようになるのである。その頃の子どもが、今は立派に成長しているのであるが、相変わらず「園長パパ」と呼ぶので、老人にもなっているので、何となくこそばゆい。その後、70歳にも近くなった時、「園長じいちゃん」なんて呼ばれることもあり、そんなときには返事もしないのであった。幼稚園を担う者として「園長先生」「園長パパ」ときには「園長じいちゃん」であるが、子どもたちの評価は「神さまの良いお話」してくれる存在として受け止めてくれていたようである。それぞれの幼稚園を退任するとき、先生たちが子どもたちに園長とのお別れの言葉を書かせてくれる。それぞれのお友だちの心のこもった言葉がいつまでも心に残るのである。時々、それら冊子を紐解いては、子どもたちの思いを示され、よろこんでいるのである。「幼稚園で教えられたことは、みんな忘れました」と言われる御仁がおられたが、そんなことはない、幼稚園時代に心の基礎を示され、成長しているのである。祝福の人生へと導かれていることに思いを馳せたい。

幼稚園を退職するとき、お友だちの送別の言葉
聖書の言葉を心に示され

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<709>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<709>
2023年10月2日「更生を求める皆さんと」

聖書の言葉
「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、愛する兄弟であるはずです。」(フィレモンへの手紙16節)

牧師は神様のお心を人々に示し、平安と希望を与える職務を担う。基本的には教会に集う人々へのメッセージであるが、教会と共にある幼稚園の子どもたちにも示している。さらに前回は教会と関係する施設の皆さんにもキリスト教を示していた。これらは教会と関係することで職務を担うのであるが、キリスト教ではない社会にもその使命を担うのである。八王子医療刑務所教誨師、神奈川医療少年院篤志面接委員の職務を与えられ、キリスト教のメッセージを示していた。共に16年間も職務を担う。もともとこれらの職務を担うようになるのは、保護司の経験があるからである。大塚平安教会に就任後、数年後であるが保護司の勤めを担うことになった。横浜保護観察所の保護司である。保護司は、多くの場合、非行の青少年を導くことである。道に外れたことで、法のお世話になるのであるが、少年院に送られないが保護観察と言うことになる。いつも保護司に生活状態を報告しながら過ごすのである。あるいは少年院を出所するが、しばらくは保護司の観察を受けながら過ごすのである。約5年は職務を担う。どうしても退任の必要を覚えるようになる。保護観察の少年は月に一度は我が家に面接に来るのであるが、ちょうど我が家の子供たちもそれらの少年たちと同じ年齢なのである。実際、面接に来た少年とは顔見知りであったのである。お互いに気まずい思いをするのである。そのようなことがあるので退任したのであった。ところが、それから数年後になるが、知人の牧師が担っていた刑務所と少年院の職務を退任することになり、保護司の経験があったので、それらの職務を担うことになったのである。刑務所の教誨師を担うことになるが、八王子である。綾瀬市に住んでいたが、車で約1時間の距離がある。いつも木曜日に行く。木曜日は朝8時30分からは施設の礼拝である。そして10時30分からは家庭集会である。お昼前に終わるが昼食の提供がある。お集りの皆さんもご持参になるのでご馳走をいただくことになる。刑務所は午後2時からなので1時には家庭集会のお家から出発するのである。午前中は集会が続き、ご馳走をいっぱい食べて車を走らせるとき、当然睡魔に襲われるのである。睡魔と戦いながら運転したこともあるが、しばらく車を停めて仮眠したこともある。刑務所はキリスト教教誨を受ける希望者であるので、皆さんは熱心にお話を聞いてくれるのである。思い出深いのは、刑務所でクリスマスの集いを開いたことである。許可をいただいてカトリックの神父さんと共に礼拝をささげ、第二部ではゲーム等して楽しく過ごしたのであった。このような楽しい集いは経験がないようで、参加の皆さんは大いに喜んでくれたようである。もう一つの神奈川医療少年院は個人面接であり、間もなく刑期が終わる少年と、社会復帰について話し合うのであった。刑務所、少年院で出会った皆さんは、刑期を終えたら教会に行っても良いか、と尋ねられている。もちろん、歓迎すると伝えているが、実現すれば喜ばしいことである。

文に関する写真がないので、我が家の庭に咲く彼岸花、白と赤と。
我が家を訪ねる皆さんに問われる。これは何か。獅子柚子である。

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<708>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<708>
2023年9月25日「施設の皆さんと礼拝をささげ」

聖書の言葉
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたがたと共にいる。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒言行録18章9-10節)

牧師としての勤めは、人々に神様の御心を示し、神の国に生きる喜びへと導くことである。「人々」と言った場合、教会に救いを求めて来る人、無関心であるが何となく教会に来ている人等、いろいろな人々なのである。それと共に子どもたちへのメッセージがある。教会には教会学校があり、子どもたちへ神様の御心を示している。最初の青山教会時代は幼稚園があっても関りがなかった。しかし、教会学校には幼児から中学・高校生まで出席するので、子どもたちへのメッセージは常に対策しなければならなかった。宮城の古川幼稚園では園長ではないが、礼拝でのお話があり、幼児伝道の使命があった。そして、神奈川の教会、大塚平安教会では園長も担うことになり、子どもたちには常の「神さまのみこころ」としてお話をすることになる。大塚平安教会牧師に就任した時、幼稚園の勤めも示されていたので、それなりに使命を深めていたのである。ところが就任の話が進められる中でも示されていたのであるが、あまり深くは思ってもいなかった二つの施設でのお勤めである。教会員が知的障碍者施設を運営しているので、そちらの嘱託牧師の勤めである。週に一度、利用者の皆さんと職員の皆さんのそれぞれの礼拝がある。木曜日と金曜日にそれざれの施設に出かけるのである。一つの施設は教会からすぐ近くであり、2、3分も歩けば行き着く。いつも8時30分からであり、その頃、朝のテレビで「おしん」というドラマが放映されていた。なかなか感銘深い物語で毎朝8時15分から見ていた。しかし、木曜日は8時30分から施設の礼拝であり、8時25分まで見ていたが、駆けるようにして施設に向かっていたのである。しかし、そういう姿勢を反省し、もはやテレビを見ないで、早めに施設に出かけ、なるべく利用者の皆さんとお話するようになったのである。施設での礼拝は、ずいぶんと訓練になったと思う。利用者の皆さんは話が分かれば、笑ってくれるし、うなずいてもくれる。面白くないお話は、大きく口を開けてあくびをするのであった。あくびの出具合によって、お話の内容を改めるのであった。施設では礼拝のお話ばかりではなく、嘱託牧師と言うことで葬儀も司ることになる。二つの施設とも、当初は、葬儀となると施設内で行われていたが、その後は斎場で行われるようになる。施設での葬儀は利用者全員が参列しお別れをしていた。しかし、斎場では利用者の代表5名くらいが参列しお別れをしていた。利用者の皆さんはいつも礼拝へと導かれ、神様の御心を示されては過ごしていたこと、祝福の人生であったと示されている。30年間も利用者の皆さんにお話をさせていただいたこと、説教者として牧師の働きか深められたと思っている。施設の玄関に入ると、ちゃんとスリッパが並べられている。利用者の〇○さんのお勤めだそうだ。そして、玄関に△△さんがいて、すぐに私のカバンを受け取り、礼拝のホールまで運んでくれるのである。誰かがそのお勤めをしようとすると、今までしてくれている人との大きな争いになる。その時は施設長が割って入って納めてくれるのであった、そのような日々を今は懐かしくおもいだしている。

この施設は、教会に赴任した当初は教会の近くであったが、後に転居する。
こちらの施設は金曜日に礼拝をささげていた。

noburahamu2.hatenadiary.org

隠退牧師の徒然記<707>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<707>
2023年9月18日「子どもたちと共に歩みながら②」

聖書の言葉
イエス・キリストは言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)

宮城県の教会で6年半勤めて神奈川県にある教会に転任したのであるが、教会と共に幼稚園の園長に就任することを示されており、そのつもりで就任する。しかし、それと共に幼稚園は学校法人であるので、その法人の理事長にも就任することであった。それについてはあまり考えてはなかったので、重荷を負った思いでもあった。しかし、ある意味では園長としての職務が円滑に進められたようでもある。法人の理事長は全体の責任者であるので、その任務をも担うので、園長としての任務は取り組みやすいということである。このような重い職務を教会の牧師が担わなければならないという決まりを、何故定めたのか。教会と幼稚園の歴史を顧みておこう。教会についてはメソジスト系の牧師たちが関り、徐々に形成されていくのであるが、この地域にキリスト教の布教が始まったとき、同時に幼児への取り組みも始まったのである。宣教師のドレーパー牧師が、開拓伝道を始めたとき、娘も共にやって来る。その頃、この地域は養蚕が盛んであり、忙しい時期は子どもたちが放置されていたような状態であった。それで一時的な季節託児所を開設することになる。子どもたちの託児所とキリスト教の伝道が同時に行われたのであった。その後、教会なるものが設立されると同時に幼児施設も開設することになる。1962年である。教会は幼稚園と共に始まったのである。最初は無認可幼稚園であったが宗教法人立幼稚園となる。そして、その後、学校法人立幼稚園への移行が始まる。全国の教会の宗教法人幼稚園も、かなり移行するようになる。学校法人になれば、助成金もあり経営が楽になるのである。そして、1977年にドレーパー記念幼稚園も学校法人に移行したのである。当時の教会幼稚園が学校法人になり、教会とまったく分離してしまった例がいくつか示されていた。そのため宗教法人立から学校法人立に移行するにあたり、内規を定め、教会と幼稚園が分離しないようにしたのである。「学校法人の理事長及びドレーパー記念幼稚園の園長は大塚平安教会の牧師が兼任する」と言う内規である。学校法人の理事長が牧師以外の人が担った場合、いつの間にか教会と分離してしまったという例を聞いているのである。1979年に就任したので、その内規は真新しいものであった。教会と幼稚園の姿勢を尊重して、学校法人の幼稚園であっても教会幼稚園としての存在を強くしつつ運営したのであった。こうして年齢と共に退任を決意した時、就任してから30年も経ていた。それで、これまでの歩みを振り返り、やはり教会の牧師と幼稚園の園長は分野が異なるのであり、それぞれを深めるためには牧師が園長を兼任しない方が良いと判断するようになる。それには内規なるものを見直さなければならない。教会の皆さんに考えてもらい、幼稚園の理事会、評議員会の皆さんに検討してもらったのである。皆さんも牧師の勤めと園長の勤めを分けることに賛成するのであった。それでようやく内規が改められたのであるが、30年間のお勤めを退任するにあたり、後世への置き土産と思っている。そして、今はそれぞれの分野で牧師、園長が祝福の歩みをしているのである。

初期の頃の教会と幼稚園
平屋の部分はホールであった
平屋の部分を改築して二階建てにする。ホールは二階、一階は玄関ホール、職員室である

noburahamu2.hatenadiary.org