隠退牧師の徒然記<710>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<710>
2023年10月9日「子どもたちと共に歩みながら③」

聖書の言葉
「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない。」
(マルコによる福音書10章15節)

幼稚園に関わる取り組みについては、二回にわたり記している。一つは、ドレーパー記念幼稚園の玄関ホールに掲げた「天国の特別な子どもたち」という詩についてである。もう一つは、牧師、園長、理事長の職務を一人で担うのではなく、やはり分担する必要があるということで、それらの兼任を解消したことである。管理上のことを記したのであり、幼稚園の子どもたちとの関りについては記していない。子どもたちとのかかわりについては、いろいろと記すには枚挙にいとまがない。それでも、いくつかの思い出を記しておくことにする。神学校を卒業して最初の教会に赴任した時、幼稚園を併設する教会であったが、主任牧師夫妻が担っており、副牧師としては全く関わらなかった。そして、四年後に宮城県の教会に赴任することになったとき、幼稚園を併設しており、退任する牧師は40年間も牧師と園長を担ってきたのである。当然、その教会に赴任するのであるから、幼稚園の園長も担うと思っていたのである。ところが、園長は教会員が担うということを示され、なんか気が抜けたようで、しばらくは就任の承諾については連絡しなかった。しかし、副牧師を4年も担っているので、早く異動したいとの思いがあり、その体制を受け入れたのであった。しかし、園長は担わなかったが、教会の幼稚園であり、幼稚園の牧師ということになる。毎週一度は合同礼拝があり、子どもたちには聖書のお話をすることになる。従って、園長には就任しなかったのであるが、この時点から子どもたちに「かみさまのみこころ」をお話するようになったのである。宮城の教会で6年、神奈川県に移り、ドレーパー記念幼稚園で30年、横浜本牧教会の早苗幼稚園で2年、伊勢原幼稚園で3年、幼稚園の子どもたちに「かみさまのみこころ」を取り次いできたのである。また、子どもたちとの触れ合いも喜びの時であった。宮城県の幼稚園では園長ではないので、子どもたちからは「牧師先生」と呼ばれていた。その後、神奈川県にあるそれぞれの幼稚園では、当然のことであるが「園長先生」と呼ばれることになる。その頃は40歳頃であり、子どもたちの父親くらいに見えたのかもしれない。「園長パパ」と呼ばれるようになるのである。その頃の子どもが、今は立派に成長しているのであるが、相変わらず「園長パパ」と呼ぶので、老人にもなっているので、何となくこそばゆい。その後、70歳にも近くなった時、「園長じいちゃん」なんて呼ばれることもあり、そんなときには返事もしないのであった。幼稚園を担う者として「園長先生」「園長パパ」ときには「園長じいちゃん」であるが、子どもたちの評価は「神さまの良いお話」してくれる存在として受け止めてくれていたようである。それぞれの幼稚園を退任するとき、先生たちが子どもたちに園長とのお別れの言葉を書かせてくれる。それぞれのお友だちの心のこもった言葉がいつまでも心に残るのである。時々、それら冊子を紐解いては、子どもたちの思いを示され、よろこんでいるのである。「幼稚園で教えられたことは、みんな忘れました」と言われる御仁がおられたが、そんなことはない、幼稚園時代に心の基礎を示され、成長しているのである。祝福の人生へと導かれていることに思いを馳せたい。

幼稚園を退職するとき、お友だちの送別の言葉
聖書の言葉を心に示され

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