隠退牧師の徒然記<711>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<711>
2023年10月16日「子どもたちの教会があるので」

聖書の言葉
「子供たちをわたしのところにこさせなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコによる福音書10章14節)

10月も半ばになったが、10月は意義ある日が続き、原稿用紙が何枚あっても足りないくらいである。まず、10月の第一日曜日は世界聖餐日である。この大切な日に洗礼を受けている。高校三年生の時である。このことについては何かと記しているので、ここでは割愛しておく。そして、第二日曜日は神学校日、伝道献身者奨励日である。この日についても、伝道者になる決心、神学校入学に至る道程なども何かと記している。10月の第三日曜日は信徒伝道週間である。それと共に教育週間でもある。キリスト教における教育ということで、キリスト教主義の幼稚園を示されるのであるが、何よりも教会学校の存在である。当初は「日曜学校」と称していたが、教会の学校であるので名称を変えたのであった。しかし、今は、「学校」ということで問題を感じるので、「子どもの教会」と称している場合がある。大塚平安教会もそのように変更している。しかし、ここでは「教会学校」との名称で筆を進めたい。自分自身、教会学校に出席することによって、今の自分がある。小学校三年生の時からである。このことについても、何かと記しているので割愛しておく。いろいろな思い出があるが、一つだけ忘れられないことがあり、このことは何回でも書き留めておきたい。出席している教会学校関東学院教会であるが、多くの出席生徒は関東学院の生徒なのである。秋になるとこちらの学校も日曜日に運動会が開催される。教会学校に出席すると、少ない人数であった。その日は関東学院の運動会であったからである。それでも教会学校はいつものようにおこなわれる。礼拝が終わると分級が行われる。その部屋に行くと誰もいない、このクラスは私以外は、みんな関東学院の生徒なのである。分級の先生は大学生のようである。学生服を着ていたように思える。大学生の先生は、一人きりの生徒であるので、何か質問はないかと尋ねる。首を振ったと思うが、先生は他に生徒がいないのでお祈りして終わりにしたのである。そのお祈りが今でも忘れられないのである。大学生の先生は、お祈りの中で私の名前を言いながら、神様にお祈りしてくれたのである。そのお祈りについては覚えてはいないが、私のためにお祈りしてくれたことだけは、いつまでも忘れられないのである。今日まで、いろいろな経験、出会い、積みかさねを経ているが、やはり原点は「お祈り」であると思っている。教会学校の大学生の先生が、たった一人の出席者、私のためにお祈りしてくれたということ、今に至る私の歩みを支えてくれているような気がするのである。「お祈り」をささげるということは、力を与える意味にもなる。今はあまり手紙なるものが使われなくなっているが、手紙の最後には、「ご多幸をお祈りしています」、「ご健康をお祈りしています」等と結ぶものである。存在をお祈りするということは、人間関係の大きな原点なのである。教会学校に出席するようになり、今の自分へと導かれているのであるが、教会学校は大切な「お祈り」を示してくれたと示されている。教会学校から出発した私の人生であるが、牧師という職務を担うことの終わりまで、いつも教会学校の存在があった。その教会学校についていくつかの思い出を記しておくことにしたい。

教会学校時代。ハイキングに参加、黒い服を着ている。

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