隠退牧師の徒然記<573>

牧師の隠退徒然記(2016年3月1日~)<573>
2021年2月22日「2月は思い出を筆に託し」


聖書の言葉
このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
新約聖書・ガラテヤの信徒のへの手紙6章11節)


2月の歩みは何といっても「思い出を筆に託す」ことである。幼稚園の園長として、3月に卒業する子どもたちを覚えつつ、修了証書に名前を書いたり、贈呈する聖書の扉に励ましの言葉を書いたりしている。前任の幼稚園時代から行っているが、今年の幼稚園卒業生にも書いてあげることにした。現在の幼稚園は三年目になるが、前の二年間は聖書の扉に励ましの言葉を書くことはなかった。今までのこととして、聖書の扉には聖書の言葉が記されるのであった。書いた人の名はなく、聖句だけなのである。この三年目にして、昔、30年間の作業を思い出し、今年は最後の時でもあり、園長自らが聖書の扉に励ましの言葉を書くことにしたのである。以前は聖書の扉に直接書いていた。しかし、字を間違えることもあり、修正することで苦労したのであった。そこで、今年はあらかじめ用紙に書き、それを聖書に挟み込むことにしたのである。結構間違えて、何枚も書き直したのである。そして、それぞれの聖書に挟み込んでは固定する、そんな作業はいつまでも心に残るであろう。もともと筆字については、決して達筆とも言えないので、こんな筆字で申し訳ないと思いつつ記しているのである。
筆字で思い出すことは、中学生の頃、習字の時間があった。担当する先生から「下手だね」と言われたことが忘れられない。その後、その言葉がいつも心にあり、下手ながらもなるべく筆を持つようにしているのである。もちろん、その後、上達したとは思えないが、勇気をもって筆を持つことができるようになったということである。それにしても、よくもこのような字で記念の言葉を書いてきたものだと思う。前記したように出来栄えではなく、筆を持つ勇気だけは持っているということである。それにしても、聖書の扉に励ましの言葉を書きながら、そのお友だちをしばし心に示されるのであった。見えない交わりとしても、とても大切なひと時なのである。
それにしても連れ合いのスミさんは、なかなかたいしたものである。それほど習字をしているとは思えなかったが、通っているサロンで書いた筆字は、家中に掲示しているのである。
年に一度、デイケア施設等の展覧会が開催される。その時には、連れ合いのスミさんの筆字が、通っているサロンの代表であるかのように、コーナーの中心に飾られているのであった。それでいて、本人は実力をほのめかすわけでもない。飾られている事実を確認しながらも、やはり喜んでいると思う。決して、自分では評価しないと言うことである。
 今は自分で字を書かない時代になっている。年賀状にしても、すべてパソコンで作られているので、本人の特徴を見失っているのである。要するに、どのような字体であるにしても文字を書くことを喜びたい。勇気をもって筆を持ち、ペンを持つことなのである。

f:id:noburahamu2:20191201120931j:plain
作品展にて、孫の義也君も見学に来て。
<>
f:id:noburahamu2:20210222094330p:plain
スミさんの筆字。
f:id:noburahamu2:20210222094419p:plain
スミさんの書が家の中にあちことに。

noburahamu2.hatenadiary.org