隠退牧師の徒然記<640>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<640>
2022年6月6日「静かな歩みを続けながら」

聖書の言葉
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。
使徒言行録2章4節)


6月5日はキリスト教の暦では聖霊降臨日である。イエス・キリストは4月17日に復活する。イースターと称しているが、それから40日間、復活をお弟子さん達や人々に示し、5月26日に昇天したと聖書は示している。そして、それから10日後、イースターから50日後に聖霊降臨日を迎える。キリスト教聖霊を神として信じ、キリストの導きとしても信じているのである。そのような意義のあるお導きであるが、この日をあまり賑やかに迎えていない。クリスマスは一ヶ月も前から飾り付けては待望しており、イースターもそれなりにお祝いされている。しかし、聖霊降臨日、ペンテコステはお祝いされながらも華やかさはない。教会では、ペンテコステに洗礼を受けた皆さんの信仰の証しを聞いたりする集いや、讃美歌を歌う会などを開くのである。
聖霊降臨日をペンテコステとも称するのは、ギリシャ語で「50」を意味し、イエス・キリストの復活から50日目に、聖霊がお弟子さん達に降ったことに起因する。イエス様が昇天後は、お弟子さん達は力なく、何を頼りに生きようか、との思いに暮れており、集まってはお祈りしていたのである。その彼らに聖霊が降ったのである。すると彼らは立ち上がり、お祭りでにぎわっていた街の中に出ていき、イエス様の救いを人々に示し始めるのである。このように聖霊は力であり、新しい自分へと導かれるのである。このような出来事が信仰の原点と受け止めることもあり、激しい信仰を持つ場合もある。賛美歌を歌いながらも手拍子をうち、誰かがお祈りすれば、共に唱和すらするのである。心を揺さぶることが信仰なのであり、いわゆる静かな信仰は物足りないと言われる。聖霊を受けるとは力強い歩みとなることを示しているのであるが。しかし、必ずしも躍動的に歩むことが聖霊の証しとは言えない。静かなる歩みにおいても聖霊の力強いお導きが与えられているのである。
2010年3月に30年間勤めた教会を退任する。その時、70歳を迎えていた。もはや現役を隠退するつもりでいたが、求められて牧師が不在の教会に赴任する。半年間であったが留守番牧師を勤める。その後は、月に一度、お手伝いに行く教会があり、そのお勤めが終わるのは2017年なのである。しかし、今度は教会の牧師ではなく、教会幼稚園の園長の勤めを求められ、5年間も関わることになる。退任したころは81歳にもなっていた。それからは隠退の身分で過ごしているが、このような静かなる歩みであっても、聖霊のお導きと言わなければならないのである。六浦谷間の集会として日曜日に家族の礼拝をささげながら、花鳥風月を楽しみつつ過ごしている。特別なことはない。通常は夫婦二人の生活であり、特別なことはないにしても、そこにも聖霊のお導きがあると示されているのである。今日は身辺整理よろしく、朝から片づけをしているが、少し休もうかと…。聖霊のお導きなので。

庭に咲くアブチロンの花。「ペンテコステ」と名付けている。
聖霊が弟子たちに降ったとき、「炎のような舌」が降ったと聖書は記している。

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