隠退牧師の徒然記<639>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<639>
2022年5月30日「講壇に立つ歩みであったが」

聖書の言葉
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときがくる。今がその時である。父はこのような礼拝をする者を求めておられるからで来ある。(ルカ福音書4章23節)


5月29日の日曜日は三崎教会の礼拝に招かれ、講壇に立ち、説教をさせていただいた。こちらの教会には隔月に一度、お招きをいただいては講壇に立っている。時には二月、三月と続くこともある。実際、今回も5月に担当させていただいたが6月にも7月にも担当することになっている。今は隠退教師なので、どこの教会にも所属せず、六浦谷間の集会として小規模な礼拝を続けているので、教会からのお招きはありがたいというより、喜びなのである。そして、今は三崎教会の他からはお招きがない。一つには、コロナ感染予防もお招きがない原因なのである。今の状況下では礼拝出席も少ない。むしろ、教会は信者の皆さんに、無理して出席しないように呼び掛けているのである。感染予防のためなのである。感染が厳しい時には、日曜日の礼拝もお休みにしている教会もある。今は日曜日の礼拝を再開しているが、それも短縮で行われているのである。礼拝では賛美歌を歌うのであるか、歌詞が3節、4節あっても全部を歌うことなく、1節のみで賛美する。説教もなるべく短く行うのである。今はどこの教会も感染予防に取り組みながらの歩みとなっている。そのような中でお招きをいただくのは、まことにありがたく、喜びでもある。それにしても従来の礼拝に戻ることを願っていることは皆さんも同じであろう。説教にしても、時間短縮を考慮しながらであり、のびのびと心ゆくまで語りたいとの思いがある。しかし、今までのそのような姿勢を反省しているのであり、説教は短く、簡潔に、聖書のメッセージを語らなければならないこと、今になって反省しつつ心がけているのである。
プロテスタントの教会は説教が長いのであるが、日本ばかりではないことを示されている。スペインはカトリック教会の国であるが、それでもプロテスタントの教会もいくつか存在している。バルセロナ滞在中にそのプロテスタントの教会に出席したのであるが、礼拝時間の長いことには閉口したが、牧師の説教も1時間以上であった。日本の教会の説教者として、自らも長い説教にならないように注意しているのであるが、それでも30分、40分はお話することになる。バルセロナカトリック教会のミサに出席した時、神父さんの説教は10分にも足りなかった。要点をはっきり示すだけである。そういうみ言葉の対応には、大いに学ばせていただいたのである。ミサ自体も1時間も要しない。み言葉をいただき、終わりは聖餐式であり、それで喜びつつ教会を後にする。日本の教会は、礼拝後には何かと集いがある。愛餐会とか各部の集いがある。あるいは委員会がある。教会を後にするのは夕刻であったりする。役員会も長い時間開く場合もある。日曜日は神様の御心を示されるときなのであり、諸集会によって折角の神様の御心がどこかにとんでしまうことも。その意味でも感染予防の取り組みは、改めて礼拝を考えさせられることになったのではないだろうか。

30年間、この講壇に立ってはみ言葉を取り次いできている。

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