隠退牧師の徒然記<632>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<632>
2022年4月11日「結局は喜びになるので」

聖書の言葉
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)

4月10日は「きょうだいの日」であるそうだ。このような記念日あることを初めて知った。「母の日」があり、その後に「父の日」も設けられていることは知っているが、「きょうだいの日」が設けられているとは。アメリカで始まったということである。病気や障害のある子どもの兄弟や姉妹への支援を行っている団体の呼びかけで設定されたという。きょうだいの存在を喜び合うこと、大変結構なことである。きょうだいの存在ばかりではなく、人間一人一人の存在を喜び合う、そういう社会こそ大切なのである。そういう社会へと導いたのはイエス・キリストの十字架なのである。
今年は「きょうだいの日」から始まったのが「受難週」である。この日から始まる一週間で、イエス・キリストは十字架への道を歩むのである。今年の場合は、木曜日の14日が「最後の晩餐」である。名画でも知られているが、キリストが12人の弟子たちと最後の夕食をしたのである。そして金曜日の15日に十字架に架けられる。十字架は重罪人の処刑であり、それは当時の指導者たちのイエス・キリストへの妬みによるものである。聖書の示しは、妬みによるものの、神は十字架を人間の救いとされたのである。すなわち、イエス・キリストの十字架の死と共に、人間が持つ原罪を滅ぼされたのである。従って、人間はイエス様が私の罪なる姿、自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼしてくださったと信じるのである。それがキリスト教の信仰なのである。
この受難週を歩むとき、イエス・キリストのご受難を偲びつつ歩むのである。日本のキリスト教は、この期間、克己の生活をすることを求めたものである。イエス様のご受難を偲びつつ、喫茶店でコーヒーを飲まないで、その費用を献金するとか、電車やバスを利用しないで歩くこと、その費用を献金するのである。克己献金を求められたのである。しかし、今はそのようなことは求められない。それぞれの姿勢で受難週を歩むことなのである。このように日本のキリスト教の受難週は重苦しい歩みなのである。そのようなキリスト教は私自身の姿勢でもあった、ところが受難週の歩み方が変えられたのであった。2011年に娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしているので赴いたのであった。丁度、受難週を迎える時でもあった。娘と共にカトリック教会のミサに出席したのである。娘もプロテスタントの信者であるが、不思議なお導きでカトリック教会のミサの奏楽を担っているのである。そのミサには子ども達も出席しており、子どもたちは棕櫚の枝を持ち、神父さんと共に聖壇に上がっている。そして、イエス様が都に到来したというくだりにおいて、手にしている棕櫚の枝を床にうち、喜びつつお迎えするのであった。受難週は人間が救われる喜びの日なのである。イエス様のご受難は私を祝福し、喜びへと導いて下さる、と言うことなのである。

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バルセロナカトリック教会に棕櫚の枝をもって集まる子ども達。
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神父さんと共に聖壇に上がる子ども達。
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バルセロナサグラダ・ファミリアに掲げられる十字架のキリスト

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多くの人々が十字架のキリストを見るのであるが。
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孫の義也も棕櫚の枝をもって教会に。

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