隠退牧師の徒然記<652>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<652>
2022年8月29日「育ての親を示されながら」

聖書の言葉
福音を示されたとき、わたしは血肉に相談することもなく、また先に選ばれた使徒たちのもとに行くことなく、再びダマスコに戻ったのでした。(ガラテヤの信徒への手紙1章16節)


前回は私の詩作について記したが、就任して一年半後に週報に発表したものであり、大塚平安教会の姿勢を報告しておきたかったこともある。就任したばかりの牧師に、何もかも任せてくれたということである。週報を自由に発行し、詩だの牧会メモだのと自由に執筆していたのである。教会によっては、週報にしても役員会で決められたとおりの方針で発行するものである。牧師が自由勝手に執筆するなんて許されないことでもある。その点、何もかも牧師に委ねていた大塚平安教会によって、牧師として育てられたと示されているのである。
牧師が自由に勝手に勤めをこなしていると思うのでとあるが、牧師はそれなりに教会の歩みのために進めているのである。2010年3月に大塚平安教会を退任したが、隠退してからはスペイン・バルセロナに赴くこと三度である。都合半年は滞在している。滞在中、もっぱらカトリック教会のミサに出席していた。娘の羊子がミサの奏楽をしていたことにもよる。その娘がサグラダ・ファミリアで結婚式を挙げる。その時、神父さんが、娘の父親がプロテスタントの牧師であることを知るや結婚式の共同司式を提案してくれたのである。その神父さんの裁量によるのであり、教会の皆さんと話し合ったわけでもない。さらに別のカトリック教会の神父さんのミサに出席する。その教会で娘がクリスマスミサの奏楽をするからである。神父さんは、娘と共に私たち夫婦が出席したのを知り、私もミサの司式をするように勧めてくれたのである。このことも神父さんの裁量なのであり、教会の皆さんと相談したわけでもない。当日、出席された皆さんは、お帰りには私に握手を求めたのであった。そんな経験をしたとき、大塚平安教会に就任した当時ことが思い出されてならなかった。神父さんを信頼して何もかも委ねているのである。のびのびと教会の歩みを支えているのであろうと示されたのであった。日本の教会の場合、神父さんと礼拝を司るとしたら、随分と長く協議されているだろう。
 そのような大塚平安教会に就任した時、それこそ就任して間もないのであるが、教会墓地の建設を牧師に一切を任せてくれたのである。教会は川崎の春秋苑に教会墓地があったが、遠距離でもあり、近くの教会墓地を検討していたのである。墓地建設委員会は厚木霊園を知り、そこに建設することになり、その設計を牧師にすべて任せる。そして1982年8月には完成したのである。鈴木牧師が就任して3年後には完成したのであるから、就任間もない牧師に、良くもお任せくださったと示されている。
 私が30年間も大塚平安教会の牧師としてお勤めできたこと、教会の皆さんが育ての親でもあったということである。本当に良い教会のお勤めを与えられたと思っている。教会は新しく建設されたが、教会墓地のたたずまいは半永久的に存在するだろう。

カトリック教会のミサを司る。通訳をする娘の羊子。
大塚平安教会の墓地。設計を担当する。、

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