隠退牧師の徒然記<691>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<691>
2023年5月29日「楽しい礼拝との感想」

聖書の言葉
信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。(ヘブライ人への手紙11章20節)

5月28日は前任の大塚平安教会に招かれ、礼拝、洗礼式、聖餐式を担当させていただく。礼拝が終わると相互挨拶で「あなたに平安がありますように」と挨拶するのであった。前任の時代にこの挨拶をするようになっている。それ迄は礼拝が終わっても、お隣りどうし、特に挨拶をすることもなく、挨拶するとしても「どうも、どうも」程度であった。お恵みの礼拝に導かれ、み言葉に養われた喜びがある。お互いに祝福を祈りあうことが大切であり、平安を祈りあう挨拶をするようになったのである。もう少し進めて、挨拶をしながら握手したり、ハグしたり、喜びを現わしたらよいと思うのであるが、やはり日本人なのである。日本基督教団の総会で、聖餐礼拝が行われるが、その時、皆さんが握手したりハグしたりする挨拶を奨励するようになっている。これもそんなに古くからではない。それでも次第に楽しい礼拝になりつつあること、各教会が試みていることである。スペイン・バルセロナに娘の羊子が滞在し、ピアノの演奏活動をしているので、何回か滞在している。都合半年くらい滞在している。滞在中、カトリック教会のミサに出席していた。娘がミサで奏楽をしているからである。ミサに出席しても言葉が分からないのであるが、全体の流れを示されていた。どこのカトリック教会のミサも、必ず主の祈りと使徒信条の告白をしている。そして、最後は聖餐式をいただいて帰るのであるが、その聖餐式をいただく前には、必ずお隣りどうしのお交わりがある。握手したり、声を掛け合ったり、ハグしたり、ひときわ賑わう。そして聖餐をいただいては、晴れやかな思いで帰っていくのである。
カトリック教会の場合、司る神父さんの裁量がまかされている。娘の結婚式をサグラダ・ファミリアで行うことになったとき、神父さんは娘の父親が牧師であることを知り、一緒に司式をすることを提案したのである。神父さんの裁量でもある。また、娘が他のカトリック教会のミサの奏楽を頼まれたので、一緒に行ったのであるが、そこの神父さんが一緒にミサを司るように勧めてくれたのである。カトリック教会のミサにプロテスタント教会の牧師が共に司式すること、神父さんの裁量でもある。日本の教会では考えらない。日本の教会の礼拝にカトリック教会の神父さんが、共に司式をすることになる場合、役員会で長々と議論をすることになるのである。すぐに、その場での裁量はカトリック教会の神父さんであるからできるのである。また、信者の皆さんも大きな姿勢でミサに臨んでいる。娘の子ども義也には6歳にもなっている。羊子がいつもミサで奏楽をしているが、義也が聖壇の近くで一人遊びをしているので、母親として注意するものの、出席者の皆さんが母親をたしなめ、子どものするままにさせないと言われるのであった。ミサ中、子ども達が聖壇に上がろうが、声を立てたりしてもたしなめないのであった。皆さんはミサに集中しているのである。そのあたりも日本の教会は厳格すぎるのではないかと思っている。だいたい、カトリック教会では礼拝の母子室なるものはない。みんなが共に一堂に会してミサをささげているのである。

カトリック教会のミサを担当する。娘の羊子が通訳を。
娘の子ども義也はミサ中、前の席で一人遊び。

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