隠退牧師の徒然記<617>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<617>
2021年12月27日「感謝を述べて」

聖書の言葉
わたしは40年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった。(申命記29章4節)


2021年も終わりを迎えている。一年間の歩みを思い出しているが、今、存在していることは事実なのであり、この存在で一年間の歩みが導かれたことに感謝している。今年の年末は、それこそのんびりとしており、まあ来年も与えられた命を励んで歩もう、と思っている。そんな思いは久しぶりであり、この5年間はそんなリラックスした思いではなかった。幼稚園の園長を勤めているので、年末・年始は冬休みにすぎなく、いつもお勤めが頭から離れず、何かの取り組みを示されているのであった。朝は6時前には家を出る。まだ暗い道でもある。しかし、12月の冬至を迎えているので、その後は明るさが増してくるので、希望の日々にもなっている。そのような年末・年始は昨年で終わり、今回はのんびりと過ごしているのである。
年末・年始の歩みは、職務があるとき、ない時の思い出であるが、過去二回ほど異なった経験で年末・年始を過ごしている。一回は聖地旅行の時であった。このツアーは年末から1月の初めにかけてであり、お正月はイスラエルエルサレムにいた。年末はシナイ山に登り、日の出を見たのであるが、それは新年の初日の出ではなく、年末のご来光というものであった。高い山の上から、日の出を見ることは、やはり胸のときめきを感じるのであった。結局、その時の年末年始は聖地で過ごしたということである。
もう一回の年末・年始はスペイン・バルセロナに滞在していた。娘がバルセロナに滞在しているので、何回か滞在しているが、その時は年末・年始を過ごしたのであった。その時の人の賑わいが忘れられない。人々は、いわゆるカウントダウンをするために広場に集まる。それはそれは多くの人々である。私達は危険でもあるので、家で年越しをしたのである。カウントダウンが始まると、鐘が12回鳴る。その鐘に合わせてブドウの実を12個食べるのである。そのためあらかじめぶどうの実の皮をむいては器に入れておき、鐘と共に口の中に放り込む。そして鐘がなり終わると、互いに新年の挨拶をする。誰でも、そばにいる人であれば、ハグをし、握手して喜びあうのであった。今は感染予防で、そのようなイベントは行われないのであるが。
2021年、今年の3月に幼稚園の職務を終える。3年間のお勤めであった。その前の2年間も別の幼稚園の職務をしていた。従って、この5年間は牧師を隠退していても、幼稚園では現役として務めていたのである。これからは文字通り隠退者なのである。若い頃は老後の歩みを思い、老後の読書、庭いじり、日々の散歩、執筆に明け暮れること等の計画を持っていたが、なんか、どれ一つとして取り組む様子もない。これまで歩んだ人生の感謝は日々重ねているのであるが。

f:id:noburahamu2:20211227093728p:plain
アラビヤ半島シナイ山からの日の出。12月31日の眺望。
f:id:noburahamu2:20211227093958p:plain
エルサレムの「嘆きの壁」、1月1日であるが、祈る大勢の人々。
f:id:noburahamu2:20211227094228p:plain
年越しのバルセロナはカウントダウンの人々が広場に大勢集まり。
f:id:noburahamu2:20211227094454p:plain
お正月はのんびりと高原を散歩して。バルセロナにて。

noburahamu2.hatenadiary.org