隠退牧師の徒然記<601>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<601>
2021年9月6日「一人の存在として」


聖書の言葉
メフィボシェトは王(ダビデ)の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。(サムエル記下9章13節)


9月となり、やはり「夏」が終わったという思いである。日本の暦の上では8月7日が「立秋」であるが、日々猛暑が続き、夏がいつまでも続いているかと思わされていた。しかし、さすがに9月ともなれば、涼しさを身に染みて感じるようになっている。この夏はいろいろなことがごちゃ混ぜになっていた。新型コロナウイルスの感染が増え続けている中でオリンピックが開催され、続いてパラリンピックが開催された。そして、高校野球にも関心が集まり、毎日テレビのチャンネル切り替えに明け暮れる。
このコロナ感染予防の中でオリンピックやパラリンピックの開催の是非が問われることになったが、いろいろな意見があるものの、開催によって多くの人々が元気づけられたと思う。特にパラリンピックのアスリートの皆さんには拍手を送りたい。障碍者という言葉は、身体のどこかに「障碍」があるということであるが、障碍があっても生活をしているのであり、運動も力強く行っているのであるから、なにも「障碍者」と言う必要がないように思える。実際、両腕のない人の水泳を見るが、障碍者とは言えないのである。だから障碍者という言葉は使いたくないのである。人間は身体のどこかに、気になることがあったとしても一人の存在として歩んでいるのである。
自分とは異なる姿を受け止めるということである。そのような出会いがないままに成長することによって、自分とは異なる姿を蔑視することになるのである。日本の昔のことだけではないと思うが、障碍者は隠れた存在であった。家族も本人も、なるべく人々には触れないようにしていたのである。だから、自分とは異なる姿を蔑視することになっているのである。以前、幼稚園の園長を担っていたが、ハンディキャップのお友達を複数迎えていた。ある日、転入園してきたお友達が、ハンディキャップのお友達を見たとき蔑視的な言葉を投げかけたのであった。今まで、出会いがなかったのであり、その子を責めることではない。その後、転入園のお友達もハンディキャップのお友達と共に過ごすようになったのである。どのような存在でも受け止めて歩むこと、人間の基本的姿勢である。
パラリンピックでは視覚障害の皆さんの活躍があった。水泳、陸上、サッカー、ゴールボール等、アイマスクをして競技が行われていた。昔は、「スイカわり」や「福笑い」等は行わないようにしていた。盲人の真似をして笑いあうこと、差別ではないかと示されていたのである。しかし、今では体験的にアイマスクをして、ブラインドサッカーをしている。体験することによって、視覚障害の皆さんを理解しましょうということである。視覚障害者が駅のホームから線路に転落する事故が後を絶たない。視覚障害の皆さんと共に歩む、積極的な姿勢が弱いということでもある。一人の存在として共に歩みたいのである。

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運動会は楽しく行われるので…。
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プール遊びも楽しくて。
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玉はいっぱい入れたと思うけど。
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皆で楽しく運動会。

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