隠退牧師の徒然記<628>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<628>
2022年3月14日「共に歩むということで」

聖書の言葉
わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙<二>5章18節)

北京オリンピックが終わり、引き続き北京において冬季のパラリンピックが開催された。冬季なので氷上、雪上での競技であり、なかなか大変なことであろうと思う。いくつかの競技を見たが、ハンディキャップを持ちながらの競技であり、もはやメダルのためではなく精一杯競技に参加したことを讃えたいのである。昔、6年半ばかり宮城の北、古川に住んでいた。東北でも太平洋側に位置しているので、雪はそれほど積もらない。それでも鳴子に行けばかなりの積雪なのである。仙台の北には七つの教会があり、仙北地区と称していた。毎年、1月の初めころになると地区の牧師家族会が開催される。鳴子の温泉に泊まり、翌日はスキーを楽しむのである。その頃、牧師家族のそれぞれの子ども達は、比較的年少であったのでこのような企画になっていた。我が家の三人の子ども達も喜んで雪遊びを楽しんだのであった。上の子どもは小学校低学年であったがスキーを楽しむ。二番目は幼稚園児でありソリ遊びを楽しんでいた。三番目は未就園児であり、あまり雪遊びは好まないようで、私が休憩所でストーブで暖を取っていると一緒に温まっているのである。子ども達の雪遊びの面倒を見ているのは連れ合いであった。それで、私もスキーとやらをやってみようということに。そしたら連れ合いに叱られ、止められるのである。私がスキーをして足でも折ったら、帰りの車を誰が運転するのかというのである。結局、毎年のこと、スキー場にいながらスキーの経験が一度もないのである。スケートについては若い頃、友達と共に楽しんだことがある。スケートで滑ったのではなく、氷の上を歩いたという思い出である。ソリ滑りについては幼稚園の卒業遠足として日本ランドに出かけていた。楽しく滑る子ども達に誘われて、一度か二度一緒に滑ったが、滑ったという思い出にはならない。こうして振り返ると、氷上や雪上の思い出がないので、パラリンピックの皆さんの競技は大変であろうとは示されている。一人で三つも金メダルを取る人がいて、今回も盛り上がったパラリンピックであると思う。
パラリンピックでいつも示されることは視覚障碍者の競技である。よくも、あのような競技ができるもんだなあ、と思っている。昔、「福笑い」や「スイカ割」という遊びはしないようにした。顔の絵が描いてあり、そこに目隠しをして目、鼻、口、耳等を置くのである。出来上がりは変な顔であり、大笑いするわけ。しかし、目が見えないことで笑いあうこと、それはよろしくないので、その遊びはしないようにしたのである。しかし、パラリンピックが普及するようになり、子ども達も視覚障害の体験をすることで、あえて目隠しをして競技をしている。そう、「笑いあう」と言うことではなく、「経験」をして理解を深めること、それは大切なことであると示されている。車椅子の体験もしてみようかと。

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仲良くお弁当を食べて。
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こちらはバルセロナの幼稚園。子ども達が共に喜びつつ成長することを祈り。

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