隠退牧師の徒然記<618>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<618>
2022年1月3日「やはり思いを改めて」

聖書の言葉
新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。(詩編98編1節)


2022年の始まりであり、やはり新年の挨拶をしておこう。2021年12月まで、82年間の人生が導かれたことを感謝している。さらに2022年の歩みへと導かれているので、支えとなっている神様の御心をいただきつつ、健康に留意しながら歩みたいと思っている。健康に留意することでは、昨年の12月に人間ドックに入り、いろいろと検査してもらった。もうこの年齢なので、加齢に伴ういくつかの弱みがあるものの、まあ、概ね大丈夫そうなので、この年も何とか過ごせそうである。この年もなかなか進まない身辺整理に励むこと、庭の整備を少しでも進めること、そして連れ合いのスミさんと共に歩むこと、結局、今まで通りの歩みであるが、もはや幼稚園の職務がなくなり、隠退牧師としてのんびりと過ごしたいのである。それにしても、隠退しているにも関わらず、5年間も幼稚園のお勤めを続けたと思う。自分が勤めたというより、幼稚園の教職員の皆さんが応援してくださったので成し遂げることができたと示されている。
新年を迎え、家ごとに飾られる松飾りを意味深く示されている。日本では「松竹梅」を重ねることで、お祝いの意義が深まるのであるが、どこの国でも象徴的な飾りものがあるものだ。ついこの間までクリスマス飾りであったが、日本では12月25日が過ぎると、クリスマスが跡形もなくなり、松飾り一色になるのである。ところが我が家は相変わらずクリスマス飾りがある。玄関の扉にはクリスマス・リースが飾られているのである。ということはクリスマスをまだお祝いしていることになるのである。そう、クリスマスは1月6日までなのである。1月6日を「顕現祭」としている。クリスマスにはイエス様がお生まれになった馬小屋に羊飼いさん達や博士さん達が相参じて拝んだと聖書は記している。その模様は幼稚園の子ども達がページェント、降誕劇として演じている。しかし、その物語は聖書を合成して作られた物語なのである。生まれたイエス様にお会いした東の国の博士さん達は、実は1月6日であった。12月25日はクリスマスであるが、イエス・キリストのお誕生日ということではない。クリスマスとは、「キリストのお祭り」ということであり、誕生日ではなく、キリストの出現をお祝いする日として定められた「日」なのである。「顕現祭」は聖書の人々ばかりではなく、他の国の人々、世界の人々のためにも現れたということなのである。そういう意味で、世界の人々が「顕現祭」を大切にしているのである。むしろ、クリスマスより顕現祭が盛大に行われている国もある。スペインもその類であり、顕現祭当日は大勢の人々が広場に集まる。その広場には三人の博士さん達がお供を連れてきており、お菓子を配ってはお祝いするのであった。この日もプレゼントが期待できるのである。年末年始がクリスマスであるということ、意味があると思っている。

f:id:noburahamu2:20220101081023j:plain
新年になっているが、クリスマス・リースが。
f:id:noburahamu2:20220101081039j:plain
連れ合いのスミさんが作ったリースであり。
f:id:noburahamu2:20150106043127j:plain
1月6日のバルセロナの顕現祭
f:id:noburahamu2:20150106043622j:plain
顕現祭は町中の賑わいとなり。 noburahamu2.hatenadiary.org