隠退牧師の徒然記<627>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<627>
2022年3月7日「楽しむことはいいのであるが」

聖書の言葉
あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。(使徒言行録17章23-24節)


日本の国でありながら、外国のお祭りが定着し、賑やかに行われている例がいくつかある。いうまでもなくクリスマスである。もっともクリスマスは外国のお祭りではなく、キリスト教のお祭りなので、日本のキリスト教の人々の喜びなのだ。しかし、キリスト教ではなくてもクリスマスを喜んでいる日本の国の人々なのである。バレンタインデーも外国で始まったお祭りでもある。これはお祭りというより、バレンタインさんの行為が人々の喜びとなり、今でもその喜びに与っているのである。秋になるとハロウィンなる騒ぎがある。面白がって日本でも結構かぼちゃで出回るようだ。どこの国もお祭り騒ぎを好むのであるが、外国で盛んになっているのに日本では行わないお祭りがある。それはカーニバルというお祭りでもある。毎年、春を迎えるころ、外国で行われているカーニバルが報道されている。仮装をした人たちが、街に繰り出して大騒ぎをする。またおいしいものを食べるということで、肉を食べたりお酒を飲んだり、お祭り騒ぎが盛り上がる。謝肉祭ともいわれている。外国で盛り上がっているのに、日本では行われないのである。それは、やはりカーニバルの意味を知っているからであろう。
キリスト教では12月のクリスマスが終わり、春になるとイースターがやってくる。イースターとはイエス・キリストの復活をお祝いすることである。復活とは、死んでよみがえったことである。なんで死んだのか。十字架に架けられて殺されてしまうのであるが、当時の人々、指導者たちのイエス・キリストへの妬みによるものである。しかし、神様はこの十字架を人間の救いとされたのであった。キリストの死と共に人間の原罪、自己満足、他者排除を赦されたのである。復活祭までの40日間はイエス・キリストが十字架への道を歩む時であり、それを受難節と称している。受難節はキリストの受難を偲びつつ歩むので、質素な生活をすることになっている。それなら受難節が始まる前に楽しみ、美味しいものを食べようという、素朴な思いがカーニバルのお祭りと言うことになる。キリスト教の国は、国の行事にもなっているのである。そのようなキリスト教の深い意味があるので、キリスト教の国ではなければカーニバルの意味がないのである。カーニバルの期間は幼稚園の子どもも、変装して登園するという。
現役の頃、施設の嘱託牧師でもあった。毎週、利用者の皆さん、職員の皆さんと礼拝をささげていた。毎年、秋になると模擬店を開催し、お祭りとしてにぎわうのであるが、その年は「カーニバル」とふれこんでいた。そこで、カーニバルの意味を説明したのであった。外国でのお祭りを日本でも、と言うわけにはいかないのである。日本でもカーニバルが行われるなら、その後のキリストの受難を見つめる歩みをもしてもらいたいものだ。

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スペイン・バルセロナサグラダ・ファミリア、受難の門側。
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受難の門側にはキリストの十字架に至る彫像が。

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