隠退牧師の徒然記<630>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<630>
2022年3月28日「今でも支えられているので」

聖書の言葉
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
(テサロニケへの手紙<一>5章16-18節)

3月も終わりを迎えたとき、示されることは皆さんからの「お言葉」である。多くの場合、3月は終わりであり、お別れのときなのだ。そのお別れにあたり、送り出してくれる皆さんから「お言葉」をいただくのである。色紙に一言ずつ書く場合もあり、A5くらいの紙面一面に絵や文字を書いて下さる場合もある。それらを冊子にまとめて下さる。昨年3月末に幼稚園の園長を退任する。園児の皆さん、教職員の皆さんがいろいろな形で送別の辞を書いて下さるのである。また「人生読本」が増えたとの思いである。今迄、いくつかの幼稚園の職務を担当し、園児の皆さんと過ごし、教職員の皆さんと共に歩んだことで、退任の時には皆さんからのお別れの言葉をいただくのである。幼稚園ばかりではなく、教会や教会学校の皆さんからの「お言葉」の冊子があり、多くの皆さんからのお言葉をいただいているのである。もちろん、いつも示されているのであるが、とりわけ3月にもなると一層示されているのである。「お言葉」はその時に書かれたとき、時間が止まり、その時間がいつまでも続くと言うことである。「いつまでもげんきでいてください」と書いて下さったお友だちの存在が忘れられない、忘れられない存在は、その後の変化、成長は伴わないで、いつまでも「あのお友だち」なのである。そのことは、写真等も同じであり、共に写したお友達は、いつまでもそのままの存在なのである。
このような「お言葉」の冊子はまだ続くのであろうか。最近、示されることは文章にしても写真にしても残らない時代になっているということである。文章にしても、昔は手紙を書いて、往復書簡として残っていくのである。ところが、今は文章にしても、時がたてば消えてゆくことになる。写真なども印刷してはアルバムに保存していたものである。今は簡単に写真を写し、あふれるほど携帯機器に保存できるが、いずれは順次消去していくのである。お別れの言葉も、いずれは消えていくのである。「お言葉」はその時だけのものであり、いつまでも残らないということである。
「お言葉」にしても写真にしても、その「時」が残されているので大切にしたいということである。「お言葉」はお別れのメッセージであるが、そこにあるのは「お祈り」である。祈りつつお別れの言葉を記しているのであり、その祈りを受け止めたいということである。幼稚園のお友だちが「えんちょうせんせい だいすきだよ」と大きな字で書いてある。そのお友達の存在はそのまま止まっているのであるが、いつまでもお祈りしてくださっていると示されているのである。そのため、3月は「お言葉」の冊子を紐解いては、出会いの皆さんが今もお祈りしてくれていると示されるのである。いっぱいたまった「お言葉」の冊子コーナーは、宝物の場所にもなっている。

お別れの言葉を皆さんからいただいて。
皆さんの「お言葉」はお祈りとして示されているのです。
一人一人のお祈りを示されて。
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