隠退牧師の徒然記<631>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<631>
2022年4月4日「終わりはないということで」

聖書の言葉
わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう。(ヨハネの黙示録21章6節)


4月は暦の上では3月の次であり、特別な変化はないと思うのであるが、年度的にも季節的にも大きな変化があるのであった。すなわち3月までは今までの年度であり、4月からは新しい年度になるということである。企業にしても学校にしても3月で締めくくり、4月からは新しい歩みとなる。季節的にも3月までは、まだ冬が続いているのであり、4月は春爛漫と言うことになるのである。これらのことを示されながら、4月は新しい歩みとなるのであるが、現役から隠退している状況で、何が新しい歩みなのだろうか。
このブログの前回は、現役から退任に当たり、皆さんからの「お言葉」をいただいているので、今でも励まされていると述懐している。それでは、その月で「終わり」なのかと思うのであるが、4月からは新しい歩みとなっているということある。今迄、何回も「終わり」を迎えてきた。神学校の6年間の学びを終えたとき、それは3月であり、4月からは教会の牧師としての歩みが始まったのである。「終わり」は「始まり」へと続くということなのである。青山教会、陸前古川教会、登米教会、大塚平安教会、横浜本牧教会のお勤めが導かれながらも「終わり」があり、そして「始まり」があったのである。教会ばかりではなく幼稚園の職務も続くことになる。古川幼稚園、登米幼稚園、ドレーパー記念幼稚園、早苗幼稚園、伊勢原幼稚園と「始まり」から「終わり」となり、そしてまた「始まり」となっていくのである。2010年に大塚平安教会の牧師、ドレーパー記念幼稚園の園長を退任した時、70歳にもなっていたので、いわゆる隠退の思いであった。しかし、現役を求められ、その後はいくつかの教会や幼稚園の職務を担うことになる。しかし、それも2021年3月には「終わり」としたのであった。これですべてが「終わり」となったと思うのであるが、人生が続く限り、「始まり」があるということである。
長々と前置きを記しているが、要するにすべてが「終わり」になっているが、それでも「始まり」を述べようとしているのである。2021年4月から今の歩みの「始まり」である。すなわち、隠退牧師として日々のんびりとすごしている、ことになっている。しかし、のんびりどころではなく、日々、気を配らなければならないことが多いということだ。50年間の教会や幼稚園、その他の職務で積み重なったもろもろのこと、それらを整理することである。また、家の整理もあり、庭の手入れもあり、しなければならないことが多い。今迄、放置していたことの整理の「始まり」なのである。しかし、そうは言っても、職務は何もないので、やはり日々のんびりと過ごしていることが「始まり」の特色かもしれない。要するに「終わり」は「始まり」へのバトン渡しと言うことなのである。「始まり」は今までにない喜びがあるということを記しておきたいのである。

f:id:noburahamu2:20220401084934j:plain
毎年、4月初旬には源平桃の花が咲き、楽しんでいる。
f:id:noburahamu2:20220404111714j:plain
スペイン・バルセロナ在住の孫の義也は、母親がサグラダ・ファミリアのミサでパイプオルガンの奏楽をしているが、その足元で静かに遊んでいる。
noburahamu2.hatenadiary.org