隠退牧師の徒然記<664>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)時<664>
2022年11月21日「住めば都であるけれど」

聖書の言葉
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。(ヨハネの黙示録21章3-4節)


新しい状況に身を置く場合、何もかもわかって、あるいは理解して就任するわけではない。大筋を示されて、それを受け止めるのである。しかし、その新しい状況に身を置くと、こういうことなのかと思うし、聞いてなかったと愚痴を述べてしまうのである。宮城県の教会から神奈川県の教会に赴任した時、いろいろな面で良い条件で受け止めていた。何しろ、高齢になりつつある両親が住む神奈川県であり、車でも1時間はかかるとしても、近くに来たからである。喜びつつ新しい職務につき、新しい環境で住むことになる。この地域はスーパーマーケットや発展した商店街が多く、まことに便利であった。住めば都になるのであるが、その都は騒音に悩まなければならなかった。飛行機の騒音については聞いていたのか、聞いてなかったのか不明である。気にもしなかったということである。住み始めて、当初は飛行機なるものは飛んではいなかったが、ある日から毎日飛行機の騒音に驚かされたのである。住んでいる地域に米軍の厚木基地飛行場があったのである。その飛行場で飛行機の発着訓練が行われる。飛行場を飛び立つや旋回して、再び飛行場に向かう。丁度、存在している上空を通過していくのである。かなり低空でもあるので騒音が激しいのである。飛行機が通過するときは人と話していても聞こえない。もちろん電話中も中断しなければならない。さすがに日曜日の飛行訓練はないが、週日の訓練は、当然幼稚園に影響する。先生のお話が聞こえないのである。いつも騒音下にいるので、子ども達は驚かなくなっているが、耳をふさいでいる子も多い。夜の9時頃まで訓練しているときがあり、教会の夜の集会にも影響していたのである。
その騒音被害の訴訟が起こされており、教会員の一人が原告団になっているので、宗教者あるいは教育者の立場で原告団に入るよう勧められ、名を連ねたのであった。初めて裁判の原告となって証言することになる。陳述書を提出している。その中に、飛行機が真上を通過するので、その騒音には耐えられないと述べたのである。それを強調する意味で、「飛行機を操縦する人が見えるくらい低い」と述べたので、国側の弁護団から「本当に操縦している人が見えたのか」と問われてしまう。それほど低飛行であることを述べたかったのであるが。この訴訟は次々に起こされていた。結局、騒音被害は認められるので、騒音被害地域の住宅は騒音被害対策工事が行われるようになっている。住んでいる住宅は教会の中にあったが、騒音被害地域の住民であるので、防音工事をしてくれる。窓ガラスは厚い材質にしてくれたり、天井板を厚くしたり、エアコンを設置してくれたりしてくれたのであった。そのように防音工事をしたとしても、騒音被害はなくならない。相変わらず電話の声も聞こえず、人との会話も中断するのであった。
こうして騒音被害の声をあげるのであるが、基地そのものに対して反対の声をあげられない状況もある。教会に出席する人の中には、また幼稚園の保護者には基地で働く人もおられるのである。騒音は抗議しても、基地の存在に声を上げられない状況もあるということである。

こんなに澄み切った空であるが、激しい爆音が降り注がれ。

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