隠退牧師の徒然記<689>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<689>
2023年5月15日「やはり礼拝は教会で」

聖書の言葉
あの方は、そうしていただくのにふさわしい方です。わたしたちのユダヤ人を愛して、自ら会堂を立ててくれたのです。
ルカによる福音書7章4節)

このところ昔のこと、いろいろと取り組んだことを記しており、懐かしんでいるようであるが、目的は礼拝にどう向き合ったか、と言うことを書き留めているのである。教会の皆さんが全員で一人の青年の病状回復をお祈りしたこと、皆さんが心を一つにして神様を礼拝したのである。前回は墓地建設を記したが、墓地は死者を埋葬する場所であるが、墓地にたたずんでは神様を礼拝するのである。そのため墓地には説教台まで設置されている。他のキリスト教の教会墓地では見ることができない佇まいである。どこにあろうとも礼拝しつつ歩むことなのである。聖書の人々は、初期の頃、礼拝所を持参しながら旅をしたのである。それは旧約聖書出エジプト記に示されることである。エジプトで400年間も奴隷であり、その人々が神様の僕モーセによって解放され、神様の示す「乳と蜜の流れる土地」カナンへと向かう、実に40年も要するのである。その旅の途上、人々は礼拝する場所を持参していた。それが「幕屋」と言うものである。いわば折り畳み式聖所である。旅の途上、宿営するときには折り畳み式聖所、テントであるが、組み立てては神様からいただいた十戒を安置するのである。その折り畳み式聖所の前で礼拝をささげていたのである。そして、カナンに定着するようになり、ソロモン王が立派な神殿を建設するのである。ソロモン王は完成した神殿の前でお祈りをささげている。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」とお祈りしたのである。つまり、ソロモンは神殿を造ったとしても、この神殿に神様がお住まいになっているとは思わない。しかし、神様のお名前を置いてくださっているので、その「お名前」に向かってお祈りをささげるということなのである。そう、教会に神様がお住まいになっているのではない。神様が教会にそのお名前を置かれているのである。それは教会に神様が存在していることにもなるのである。その神様の存在でもある教会の正面、即ち講壇であるが、多くの場合、教会の正面の講壇は十字架が掲げられている。
大塚平安教会は創立40周年記念として教会内の改修をしている。その時、講壇も改修したのである。今迄は講壇の両脇は小部屋であった。礼拝前の祈祷室とか、事務的な職務をする場所でもある。しかし、どうしてもその小部屋は物置になってしまうのである。そこで改修時に小部屋を撤去する。広い正面の講壇にしたのである。その中心は十字架であるが、十字架には救いのメッセージが示されているのであるが、それに伴う示しを与えられるようにしたのである。12本の柱と梯子をおき、そこに十字架を掲げたのであった。12本の柱と梯子の柱を兼用にしたので、柱は10本としか見えないのであるが、12本として聖書の聖なる数字としたのである。梯子は天に昇るためでもある、いずれも聖書に示されることでもある。そこに置かれている神様の御名に向かって祈りたい。

改修した教会の正面の講壇

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