隠退牧師の徒然記<726>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<726>
2024年1月29日「新しい年を迎えて ⑤ 」

聖書の言葉
「あなたがたは、古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、清い生活を送るようにしなさい。」(エフェソの信徒への手紙節4章23-24節)

いつまでも新しい年を迎えての感想を記す必要はないが、もう一つだけ加えておこう。それはゴミ処理の課題である。生活していれば、必ずゴミなるものが出て来る。それらは分別してゴミ処理をするのである。燃える生ゴミや生活上不要となったものなどは火曜日と土曜日に出せる。プラゴミは月曜日である。このプラゴミが多いのである。買い物をすれば必ず包装されているのがプラなのである。我が家がこんなにプラゴミが多いと思ってゴミ捨て場に持っていくと、もういっぱいなのである。横浜市はゴミ捨て場に「カラスいけいけ」の大きなネットの駕籠が置いてある。今までは二つの駕籠であったが、プラゴミの日は三つの駕籠が置かれる。午前9時までにゴミを出すのであるが、8時ごろにゴミ出しに行くと、もはやいっぱいであり、上から押し込んで駕籠に入れるのである。水曜日は「ペットボトル、缶、ビン」で同じ袋に入れて出せるのである。こうしてゴミ処理生活をしているが、最近は結構大変にもなっている。「燃えるゴミ」の日は、いろいろと出せるので、毎日それとなく身辺整理をしているので、結構な量にもなっている。以前、現役の頃は、何もかも大事なもので、いずれ何かの役に立つとして整理はしなかった。それが隠退した今、必要であったものが、何の役にも立たなくなっているのである。一番困っているのが書籍である。以前は、書籍は大切であり、ひたすら買い求めていた。今では、本棚に収めることもできず、戸棚の中の段ボールに収められている。いろいろ集めた資料等がうず高くなっている。大切であったと思っていたものが、今はゴミ捨ての決断になっているのである。写真もどうしたら良いものかと迷っている。今は写真をアルバムに整理することはない。スマホなるものに収められており、古くなったものは消去すればよい。残されている写真をゴミとして捨てるには、考え込んでしまうのである。年賀状も戸棚を独占していた。現役の頃は毎年200通以上はいただいており、それが30年以上も戸棚の主にさせておいたのであるから、家が狭くなるものである。年賀状ごときで家は狭くならないが、これは一例なのであり、今までは何も処理しなかったということである。それで、終活なるものを初めているのであるが、とにかく身辺整理をしておこうと、いろいろとゴミ処理をしているのである。庭の片付けもあり、多い時は45リットルのゴミ袋が四つも五つにもなるときがある。そのようときはゴミ捨て場まで300mくらいあるのだが、二回、三回に分けて捨てに行くのである。以前、もう少し若い時はなんとも思わなかったが、最近は困難を覚えるようになっている。そんな状況を迎えていた時、スペイン・バルセロナ在住の娘の羊子家族が一時帰国する。羊子は今回も各地でリサイタルや講演等をすることであった。羊子の連れ合いには、鈴木家の庭が雑草等で生い茂っていたので、きれいに処理くれたし、いろいろと片づけてくれたのであった。その時、処理したゴミを彼が捨ててくれたのであるが、通常のごみ捨てを知った羊子がゴミ捨て用の台車を購入してくれたのである。これがあると、今まで二回三回に分けて捨てていたゴミ処理は一度にすみ、今年はごミ捨てが楽しくなりそう。いっぱい身辺整理をすることに。

ゴミ出し用の台車
ゴミはもっとたくさん積めるので。

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